奇襲、水攻め、兵糧攻め… 戦国時代の城の攻め方守り方とは?

社会

公開日:2014/6/8

 兵庫県の竹田城が「天空の城」「日本のマチュピチュ」と呼ばれて観光客が激増し、「第2の天空の城」として岡山県の備中松山城も注目を集めている昨今。さらには、日本の艦隊を擬人化した大人気育成ゲーム『艦隊これくしょん』に続く新たなゲームとして「城これ」が噂されるなど、世間では空前の城ブームが巻き起こっている。今では観光地になっている城だが、もともとは敵に攻め込ませないための防衛拠点として建てられたもの。特に、戦国時代に作られたものは戦いの拠点として使うために進化を遂げており、それまでの城よりも攻め落とすにはかなりの知略と戦略が必要だったらしい。だから、城の攻め方にも城を包囲し、犠牲を覚悟で一点突破する「力攻め」や少数の軍勢で大軍を落とす不意打ちの「奇襲」、城の水源を断ったり、城を水浸しにする「水攻め」、食料を断つ「兵糧攻め」など、さまざまなものがあった。そこで、5月2日に発売された『知れば知るほど面白い 戦国の城 攻めと守り』(小和田哲男/実業之日本社)から、それぞれの作戦を使った印象的な戦を見てみよう。

 まずは、城攻めの天才とも呼ばれる羽柴(のちの豊臣)秀吉が、鳥取城の合戦において行った非情の兵糧攻めから。「渇え殺し」としても知られるこの作戦は、彼の用意周到な策略によって行われる。標高246メートルの頂上に築かれた鳥取城を落とすには、一点突破の力攻めは不向きだったという。相手方は、石見国の福光城城主である吉川経安の息子・経家だったのだが、彼は持久戦になると考えていたため、何より兵糧を心配していたそう。しかし、経家が兵糧を徴収するよりもずっと前から、秀吉は一帯の米を2倍の値段で買い占めていたのだ。しかも、新米の収穫を阻止するため、2万の大軍で村に押し寄せて火を放ち、村の人々も城のなかに追いやった。経家らは、ただでさえ少ない兵糧で、予定よりも3倍以上に増えた4000人もの人々の食事を賄わなければならなくなり、あっという間に飢餓地獄に陥る。その結果、秀吉は見事勝利をおさめるのだ。

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 また、武田信玄が徳川家康の居城である浜松城を制圧しようとした三方ケ原の合戦では、双方の巧みな計略と知略が交錯する。2万5000の兵を率いる信玄と、信長からの援軍を合わせても1万1000の兵しかいなかった家康には、圧倒的な兵力差があった。さらに、信玄の陽動作戦にはまって野戦に持ち込まれた徳川軍は、壊滅状態にまで追い込まれる。直前の二俣城の攻略に1ヵ月以上も費やした信玄は、そのまま浜松城を攻めて損害を出すより、短期決戦に持ち込みたかったのだ。その作戦は見事成功したのだが、家康もそのままでは終わらない。命からがら浜松城へ帰りついた家康は、浜松城を守るため、「あえて大手門を開き、内と外にかがり火をたかせ、太鼓を叩かせた」のだ。これは、城の残存兵力を大きく見せ、城への攻撃を躊躇させる「空城計」という作戦で、それに警戒した武田軍は兵を引き挙げ、浜松城は落城を免れた。

 攻城戦において、ただただ耐えて守り抜く籠城側は不利な印象があるが、実は籠城側が勝利するケースも少なくないという。その戦術が、応援軍と連携して挟み撃ちにする「後詰」と呼ばれるものだ。これを用いて勝利した「屈指の籠城戦」として知られるのが、天文15年に起こった河越夜戦。河越城は、扇谷上杉持朝が家臣に築かせた「攻めるに難く、守るに易し」と謳われた堅城だった。しかし、後に関東制覇を狙う北条氏綱に奪われ、北条氏の前線基地となっていた。上杉側は城奪回のため、8万5000の兵で河越城を取り囲んで兵糧攻めを決行する。対する北条軍は、氏綱の娘婿である綱成をはじめ3000余りの兵しかいなかったので、上杉軍は慢心してしまう。そこを狙った北条家現当主・氏康が「籠城の者を助命してもらえるならば忠節を誓う」と偽りの和議を申し入れたり、戦いを挑んでは逃げ帰り、相手を徹底的に油断させた。そうやって隙を作った氏康は、夜襲を決行して城の中にいた綱成らと挟み撃ちにし、一挙に総崩れさせることに成功した。

 このように、武将たちの知略が冴え渡るのが城攻めの魅力でもある。そういった戦略も知った上で城巡りをしてみると、より一層楽しめるかもしれない。

文=小里樹