被告の弟が自殺… 発生から6年 今改めて考える「秋葉原事件」 ネット掲示板への固執が凶行を決意させた?

社会

2014/6/8

 17名の死傷者を出した秋葉原無差別殺傷事件が起きてから6年が経つ。2008年6月8日12時33分ごろ、元自動車工場派遣社員男性加藤智大の運転するトラックが交差点に設置された赤信号を無視して突入。横断中の5名をはねたあと、道路に倒れこむ被害者の救護にかけつけた通行人・警察官らを所持していたナイフで立て続けに殺傷した。その中継映像はテレビやネットで流れ、のちに加藤被告は一部のネット住民らに「神」と呼ばれ、共感の声まで集まった。

 そんな彼の弟が、「死ぬ理由に勝る、生きる理由がない」と、自ら命を絶ったことを『週刊現代』(2014年4月26日号)が伝えた。再びネットが沸き、加害者家族であった弟への同情の声が寄せられた。

 日々、さまざまな殺傷事件が起きるなか、忘れかけていたこの事件を再び思い返そうと、加藤智大被告が著した『』(批評社)と、政治思想の研究者・中島岳志氏による『秋葉原事件 加藤智大の軌跡』(朝日新聞出版)、そして直接事件に触れているわけではないけれど、NHKの報道番組ディレクター、鈴木伸元氏による『加害者家族』(幻冬舎)を手に取った。結果、見えてきたのは「第三者の目」の限界と、「個人」が存在しない「世間」の怖さだ。

 『』を読んで、まず驚くのは、事件当初、報道機関が伝えていた加藤被告の犯罪動機と、加藤被告自身が語る犯罪動機に大きなギャップがあることだ。当時は加藤被告が派遣社員であることがフォーカスされ、職場でツナギを隠されてカッとなった「勤務先でのトラブル」があたかも動機のように報道されていたが、実際、彼の意識は「掲示板がリアルで、リアルが非リアル」であったように思う。歩行者天国へ突入する前、その入り口の交差点で加藤被告は「3回失敗」し、止まっていた。「頭では突っ込むつもりでいたのに、体のほうが勝手にブレーキをかけた」彼が最終的に「心を殺した」のは、「成りすましらへの心理的な攻撃を開始してしまったこと、つまり、掲示板に秋葉原無差別殺傷事件を宣言してしまったことで、もう後戻りできないところまで来てしまっていることに気づきました」という掲示板への固執からだ。

 ちなみに『』には「相手の間違った考え方を改めさせるために痛みを与える」という言葉が幾度も出てくる。加藤被告の母親は、加藤被告を躾けるとき、「なぜ」を伝えることなく「行動」で示したという。加藤被告の母親は、加藤被告の「間違った考え方を改めさせるため」、チラシのうえに食べかけのごはんを投げ入れたり、交際相手からもらった恋文を冷蔵庫に貼り付けたりした。その躾は屈辱的だったと批判する彼もまた、自身の母親同様に「言葉」で相手に説明する手段を知らない。結果、相手に「痛みを与える」ために「行動」するのだが、その行動が、放火や職場放棄であるため、自分の意図が相手に伝わることのないまま、どんどん行き場を失っていく。

 『』について、中島氏は「私には加藤があえて触れようとしない(誤魔化して書いている)重要な事項が多過ぎるように思えた。加藤は自己と対峙することから逃げ続けていると思った」と述べているが、この考察はあくまで「大人の」「常人の」ものであるように思う。同氏が書いた『秋葉原事件 加藤智大の軌跡』と、加藤被告自身が書いた『』を読み比べると、明らかに『』のほうが思考が離脱していて、つじつまが合わないと思う箇所が多いのだ。「誰でもよかった」と言って、人を殺す者がいるが、加藤被告の場合、その「誰」すら認識していない。そこにあるのは、掲示板上の「間違った考え方を改めさせるための手段」としての「殺傷事件」であり、彼が「殺傷事件」を想像するとき、中にいるはずの「生身の人間」の姿がどういうわけか存在しないのだ。リアル社会の交友関係を、「空腹でひもじいのに、ひと口しか食べさせてもらえないようなもの」と語る加藤被告にとって、掲示板の崩壊こそが「リアル(=自己が存在する場所)」の崩壊だったのだろう。

 そんな加藤被告と長い間、関係が断絶していたにも関わらず、突如、加害者家族となってしまった弟の自死もまた、深い孤独からくるものだった。書籍『加害者家族』は、そんな加藤被告の弟が体験したであろう状況を次のように説明している。

<その事件が発生すると、加害者家族は、個人が存在しないこの“世間”に取り囲まれる。嫌がらせの手紙や電話、落書きは、ほとんどが匿名によるものだ。集団で同じ行動をすれば、匿名の個人は目にはみえない存在として、集団の中に紛れ込める。結果的に常に安全地帯から、意見表明をすることができる。そして、“世間”による加害者家族への攻撃はエスカレートしていく。さらに、匿名性が極めて高いインターネットが、もともと匿名性の高い「世間」の暴走をさらに加速させている>

 「世間」に取り囲まれる「自己」の「孤独」に対する怖れ。それは多かれ少なかれ誰しも持ち合わせている。いみじくも兄を「殺人」へ、弟を「自死」へ走らせたものは同じだが、加害者家族である弟のほうが、元来感じる必要のない罪の深さに苛まれ、「世間」の闇に飲み込まれてしまったのが、心苦しい。

 獄中の加藤被告は、弟の死に今、何を感じているのだろう。自らのために命を落としていった人々の情景が、今は見えているのだろうか。せめてそうであってほしいと願わざるを得ない。

文=山葵夕子