“いい歳をした大人”がチェーン店でメシを食べるということ

文芸・カルチャー

更新日:2017/11/21

「どこでメシを食べるのか」というのは、意外と大きな問題だ。いつでも自宅で食べられればいいのだが、現実的にはそうもいかない。単身者ならばなおのこと、だろう。で、そんな時にどこで食べるのか。「行きつけのいいお店があってね」などと言えるならばカッコイイ。が、現実はそううまくはいかない。毎日毎日行きつけの店に通ってもなんだか見られているみたいで落ち着かないし、出先での昼食では近くにどんな店があるかすらわからない。

そんな時、気がついたら行ってしまうのが“チェーン店”。個人経営のいわゆる“いいお店”とは対極をなす、どこにでもあってどこでも同じ味で、よくも悪くも“無難”なチェーン店。いい歳をして“いいお店”ではなく学生と同じチェーン店に行くことが少し情けなく感じつつも、今の時代はチェーン店を避けて通ることはできないのだ。

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気がつけばチェーン店ばかりでメシを食べている』(村瀬秀信/交通新聞社)は、そんなチェーン店を避けて通れずに生きてきたひとりの大人の思いの丈を綴った1冊。出てくる店は、吉野家・びっくりドンキー・サイゼリヤ・カラオケパセラ・日高屋・リンガーハットなどなど、誰もが一度は行ったことがあるようなチェーンばかりだ。チェーン店を対象としたグルメ本を期待しているなら、それは間違い。これらのチェーン店を相手取り、褒めるわけでもなく、けなすわけでもなく、ただひたすらに筆者がチェーン店で過ごした濃密な時間を語っていく。

少しだけ、中身を紐解いてみよう。冒頭の「吉野家」の項。筆者は牛丼なんてそっちのけで、「小袋で最低でも50袋は必要」という七味唐辛子に血道をあげる。「牛角」では、「牛角は青春だった」と言ってのけ、若き日の節目節目に牛角の焼き肉を食べたという思い出が語られる。駆け出し時代に編集者に連れられて訪れたという「鳥良」では、貧乏だった頃の思いが高じて「その料理は世界を凌駕する」などと言う。「日高屋」の項を読めば、仕事に行き詰まり、朝の日高屋で酔いつぶれながら店員に「自分の作りたい最高のラーメンを作れ」とくだを巻いている。

こうして読んでみれば、チェーン店で過ごす時間は、“むき出しの素の自分”と向き合う時間なのではと思えてくる。オシャレレストランでカノジョにいい顔をしている自分でもなく、部下にいいところを見せたくて通ぶった店に連れて行ったときの自分でもない。チェーン店は、「オシャレ」「カッコイイ」とは180度正反対のカッコつける必要も何もないチェーン店だからこそ、孤独でダメな等身大の自分が見えてくるのだろう。

とは言いつつも、結局チェーン店ばかりでメシを食べているいい歳をした大人に向けたメッセージを、筆者・村瀬秀信氏にお願いした。

「こう言っちゃなんですが、別にチェーン店が素晴らしいなんて言うつもりはさらさらありません。ぼく自身も個人店が大好きだし、チェーン店なんていい歳した大人が大手を振っていくところじゃありません(笑)。でも、本に書いたようなチェーン店での思い出は、誰にだってあると思うんです。子供の頃に家族で行ったファミリーレストラン、泣きながら食べたチェーン店のラーメン。そんな話を肴にして気のおけない仲間と酒を飲めば、それでいいんじゃないでしょうか。ただ、ひとつアドバイスをさせて頂くならば、ファミレスのドリンクバーは2杯まで(笑)。あそこで3杯以上飲んで話していることは、きっとロクなことじゃありません」

大人になると、メシをどこで食うかはその人の“底”が知れる値踏みの場でもある。それこそ大手を振ってチェーン店! とは決して言えない。しかし、それでもチェーン店は誰しも避けて通ることのできない業のようなもの。なんだか大げさなような気もしてくるが、大人にとってのチェーン店とは、それほどのものなのかもしれない。

文=鼠入昌史(Office Ti+)