私たちを理科好きにする4人の“人間くさい”科学者たち

科学

更新日:2014/9/30

「子どもの理科離れ」が叫ばれて久しい。次世代の科学者が育たないと、産業競争力は低下する。困ったものである。しかし、実際には学習指導要領の改訂で数学や理科の分野は強化され授業時間も増えた。実験などじかに触れる時間も増加傾向だ。民間でも科学を題材にした子ども向けワークショップがさまざま催されており、盛況だ。ところが、子どもにとって「理科」が、ほかの教科より多少「むずかしそう」というイメージは、昔から変わらずあるのかもしれない。

 なぜか。まず、暗記だけで対処できない理科そのものが難しい、と考える子どもは多い。ひとつのつまずきが大きく足を引っぱるという怖さもある。そして、こんな理由もあるかもしれない。「科学者は何を考えているか、庶民にはわからない」。

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 科学者はムズカシイことを考え、語るイメージがありはしないだろうか。理科の分野で偉業を成した人物たちは、どこか神格化されているように思う。

 では、理科教育を推進するために、どのようなアプローチが考えられるだろうか。理科の時間を強化し、多種多様な体験型ワークショップを催すのもよいだろう。そして、前述の推測が外れていないなら、例えば「科学の偉人たちに親しみを持つこと」も、理科への抵抗感を取り除く大きな一助となり得そうだ。高野文子の最新コミックス『ドミトリーともきんす』(中央公論新社)は、まさにこれを体現している。

 誰もが知る、朝永振一郎、牧野富太郎、中谷宇吉郎、湯川秀樹の科学者4人。私たちが「天才」ともてはやし畏怖する彼らが、じつは“非常に庶民的な一面”を持っているとしたら。考えてみれば、庶民的な一面くらい、誰しも持っていて当然だが、科学の天才である4人であることの意味が大きい。「ノーベル賞科学者も、自分と共通するところがあるんだ」と知るだけで、なんとなく理科への親しみが湧いてこようというものである。

 本書では、前述の科学者たちが寮生として学生寮の2階に住み、勉学に励んでいるという大胆な試みがなされている。描かれるのは、若かりし頃の4人がふだん何を考え、どのような言葉を口にするか、というものである。4人の言動が、単なる作者の空想ではなく、科学者本人たちが自著で綴ったものからつくり出されている、というのが重要なファクターである。

 例えば、寮母のとも子に弱音を吐くトモナガくんの一幕。「ぼくがもっと頭が良かったらなあ」、なんてフィクションにも思えるセリフが、じつは朝永が自著『滞独日記』に綴った不安と苦悶からつくられていることが、のちほど、抜粋と解説で明かされる。ノーベル賞受賞者の朝永が自分自身を赤裸々に書き綴った本が出回っていることに浅学な私などは驚いたが、同時に興味を惹かれ、朝永への親しみがふつふつと湧いてきた。

 日本の植物学の父とされる牧野富太郎は、植物への好奇心と、絵筆で植物を描くことの意義やこだわりを情熱的にとも子に語る。好きなものこそ上手なれ、を地でいき名を残した牧野の植物図鑑の一部を見ると、好きなことに遠慮せず打ち込んでよいのだという勇気が与えられる。

 物理学者の中谷宇吉郎も、生涯を捧げた雪と氷について語り始めると止まらない、今でいうオタク気質のキャラクターが、オタク肌の若者から中高年までの心を捉えそうだ。

 湯川秀樹は、作中ではひょうひょうとした捉えどころのないキャラクターながら、例えばとも子の愛娘が階段から転んだ場面からしぜんな流れで確率を論ずる天才ぶりが圧巻なのだが、本書の最後に収録された“科学を表現した”詩が、非常に情緒豊かで、感動する。科学者が科学の目を通して情緒豊かに表現した詩は、説得力があり、これまでにない感動が味わえる。

 このように、読者はドミトリー(下宿)に住まう科学者たちの人間味あふれる言動を通じ、彼らの著作に興味を持つ。そして、著作に触れた読者は理科への興味を広げていくのである。本書のコンセプトである「漫画による読書案内」は、みごとに成功している。

 本作は、作者である高野文子の12年ぶりの新刊。描線から生まれる必要以上の表情を抑えるために一定の線幅で表現できる製図ペンを使用するなど、これまでと違う絵のタッチでも話題で、一部書店などでは朝永、牧野、中谷、湯川の文庫も揃えて「ともきんすコーナー」が設けられるなど、注目を集めている。

 ぜひ、子どもをはじめ、多くの読者に科学の世界への扉を開いてもらいたい。

文=ルートつつみ

『ドミトリーともきんす』(高野文子/中央公論新社)