予測変換を超えていきたい ―東浩紀氏の著書からみえてきた一つのヒント

IT

公開日:2014/10/1

 ネット検索の外側にあるリアルを、しがない一人のライターながら伝えていきたいと考えている。今やいかなるときでも、どんな場所にいても検索一つで情報を得られるようになった。現地に足を運ばずとも、現地の空気を肌で感じなくとも、誰かがネットに載せた情報さえ手に入れられれば、その場所で何が起きたのかを、いともたやすく知ることができるようになった。

 しかし、みずからの目や耳を通じて手に入れた情報や、肌で感じた情報というのは、人から聞いただけではそのすべてを味わうことはできないと考えている。その疑問へのジレンマが頭の片隅につきまとっていたが、東浩紀氏の著書『弱いつながり 検索ワードを探す旅』(幻冬舎)の中に、ヒントが隠されていた。

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 同書は、東氏のエッセイをまとめた一冊だ。アウシュビッツやチェルノブイリ、日本国内などの様々な場所を巡る中で、ネットとリアルそれぞれへの東氏が感じたままの思いが込められている。

 東氏は「ネットは記号でできている世界」だと語る。その理由とは「だれかがアップロードしようと思ったもの以外は転がっていない」からである。とはいえ、ネットの有用性を否定するものではない。今や日常生活とネットは切り離せない。それは、端末からビープ音が鳴っていた時代からさらに進み、何かを調べるだけではなく、人と人との繋がりを確保する役割がよりいっそう求められるようになったからだ。

 そして、東氏は「言葉にならないものを言葉にしようとする努力すること」が必要だと話す。同書の大きなテーマにもなっている、予測変換をさらに超えるということへの問いである。ひとたび検索ワードを入れれば、次、またその次と様々な関連ワードが並ぶ時代になった。しかし、私ごとながら、関連検索にある日突然違和感をおぼえた瞬間がある。

 それは、頭の中を先回りされているという感覚に陥ったからだ。予測変換で浮かび上がるキーワードは、おおむね大多数の「誰か」が導き出した興味や関心だ。そして、自分自身も予測変換に頼る場面があるものの、その反面、いつからか「検索ワードを超えてみたい」という意識が生まれてくるようになった。

 東氏は続ける。タイトルにもある「検索ワードを探す旅」というのは、すなわち「言葉にならないものを言葉にし、検索結果を豊かにする旅」だと。旅というのはけっして、言葉そのもので捉える必要はないのだろう。日常のほんのわずかな場面でも、何かをやってみようとか、何かを実際に見てみようとか、検索とは少し離れて、行動をしてみるという広義な意味で解釈すればいい。

 予測変換の並ばない検索ワードを紡ぎ出したとき、正直、心の中ではガッツポーズを浮かべてしまう。ネットとリアルという対比は、けっしてたがいの優劣を争わせるものではない。偉そうなことをいえる立場ではないが、それぞれの人たちが自分にふさわしい接し方をよりいっそう選べるようになればよいと願う。

文=カネコシュウヘイ