言葉、食、慣習の違いを乗り越えて――元大関・琴欧洲が見た相撲界

スポーツ

2014/10/6

 先月行われた大相撲秋場所。31回目の優勝を飾った横綱・白鵬ほか、新入幕の逸ノ城の快進撃など、モンゴル出身力士の活躍が印象的な場所となった。いまや彼らのような「外国人力士」の活躍はすっかりおなじみであり、時にたどたどしい日本語で謙虚に会見する姿も好印象だ。

 こうした「日本語」の使用も一端だが、力士の世界では外国人も日本人も区別なく相撲界のルールにのっとることが求められる。外国人力士たちの強さの理由には、逃げ出す者が絶えないという厳しい稽古に加え、言葉や文化の違いというハンディを乗り越えてきたという精神面のタフさもあるのかもしれない。

 実際、彼らはどのような日々を送っているのか? 今年の三月場所で惜しまれながら現役を引退した、元大関・琴欧洲による初の著書『今、ここで勝つために 琴欧洲自伝』(琴欧洲勝紀・著/徳間書店)は、人気力士の魅力的な素顔と共に、あまり知られていない外国人力士の日常を明かす貴重な記録となっている。

 琴欧洲勝紀、本名・安藤カロヤンはブルガリア出身。欧州出身者として初めて大関まで上り詰めた実力を持つ上、2mを超える長身と彫りの深いマスクでひときわ目をひき、CM等ではお茶の間の人気者ともなった。

 そんな彼が日本に渡ってきたのは19歳の大学時代の夏のことだ。当時、祖国でオリンピックを目指しレスリングに打ち込んでいたが、佐渡ヶ嶽部屋の元床山(力士の髷を結う職人)に声をかけられ、最初こそ気軽な夏休み旅行のつもりで来日。折しも父が事故でケガをおってしまったこともあり、家族を助けるためもあって正式入門を決意する。

 彼の前に、まず立ちはだかったのは「言葉」と「食」の壁だ。特に言葉は、ブルガリア語以外はできない彼にとって重大な問題だった。訊ねたいことがあってもそれを言葉にすることもできず、初めて耳にする言葉をただひたすらメモした日々は、話し相手もいない孤独で厳しいものだった。食においては、主食の米が大して食べられず、体を大きくすることができない。見かねた親方が特別にフランスパンを用意してくれる一幕もあった。食習慣の違いはただでさえストレスになるものなのに、それが力士としての素地作りに直結するのだから道のりは険しい。

 その上で課せられる厳しい稽古や相撲界独特の慣習。すべて気合と根性で乗り切る自己責任・自己管理の世界は「まるで百年前にタイムスリップしたみたい」なものと琴欧洲。レスリング選手時代にチームによる科学的なトレーニングで選手を養成するスタイルに馴染んでいた彼には、違和感の連続だったのも無理はない。だが郷に入れば郷に従えの言葉通りに稽古に励み、琴欧洲は番付を駆け上がって行ったのだ。

 父と抱き合って泣いた幕内最高優勝、最愛の妻との出会い、幼い長男との土俵入り体験…本書で披露される数々のエピソードには、素直で大きな心の琴欧洲の人柄がにじむ。ボランティア活動に力を入れていたというのも、あまり知られていない彼らしい一面だ。中でもブルガリアに子供用の中古車椅子を送る活動を熱心にすすめ、ブルガリア本国から最高勲章を、この活動に賛同したタニタからは車椅子用体重計などの寄贈も受けた。「日本人の思いやり精神が心に響いた」というが、厳しい異国の文化の中で礼節と思いやりを忘れない彼自身にこそ、私たちが学ぶべきところは多いように思う。

 惜しまれながら今年の三月場所を十一日目にしてケガで休場し、そのまま場所中に引退を表明した琴欧洲。遠い異国の地で頑張り続けた彼を支えたのは、多くの稽古を重ねてきた自信に加え、さらに上を目指そうとする強い精神力だったが、引退直前の姿は、心の糸が切れてしまったような悲しみと痛みに溢れている。当時のブログや引退会見は大きな反響を呼んだが、あの時、彼の胸に去来していた様々な思いをこうして本で振り返ると、外国人力士特有の苦労を思わずにいられない。そしてあらためて、その強靭なタフネスに感服するのだ。がんばれ、琴欧州! がんばれ、親方!

文=荒井理恵

『今、ここで勝つために 琴欧洲自伝』(琴欧洲勝紀/徳間書店)