難病と戦いながらもオリコン1位曲の作詞家に! その軌跡とは?

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公開日:2014/10/10

 次第に筋肉が衰え、身体が動かなくなっていくとしたら、アナタはどうするだろうか。きっと何をする気にもなれず、呆然と毎日を過ごしてしまうのではないか。しかし、難病にかかりながらも、夢を決して諦めなかった者もいる。高橋雅也氏著『オレ、3年で咲いてみせます。』(泰文堂)では、筋ジストロフィーに冒された高橋氏が一念発起し、嵐やKAT-TUNなどに作品提供する作詞家・masa-yaになるまでを描いている。

 幼い頃から高橋氏は、身体が弱く、些細な段差で転ぶことも多かったが、年を取るごとに身体が思うように動かなくなることが増えてきた。26歳の時、妻や2人の息子のためにも原因を知るべきだと考え、病院を訪れた彼は、医者に「筋ジストロフィー」であること、次第に筋力が低下し、あと3年程で歩けなくなることを宣告されたのだ。

 彼は高校卒業後、専門学校に入学するも中退。母親が働くバーでマスターとして働いていたが、不自由な身体では立ち仕事は辛い。そこで、彼は父親の経営する設備工事会社で働き始めた。配管工の職人で成り立っている会社であり、現場に赴くことは不可能だが、自身の身体と向き合いながら、高橋氏は経理や見積もりなどの仕事を行なうことにした。

 だが、現場で汗水流している職人達からすれば、「社長の息子はデスクワークだけをして一人前に給料を持っていく厄介者」だと思われていた。高橋氏は職人達に認めてもらおうと懸命に一級管工事施工管理技士などの国家資格を取得。しかし、難病のため、工事現場に出ることができず、結局その資格は活かすことができないまま、肩身の狭い思いをせざるをえなかった。

 「父親の会社の重荷になっている現状を打開したい」。32歳になった彼は、ハローワークに電話をしたが、車イスで働ける職はなかった。何か資格を取って福祉の仕事でもすれば、人の役に立つかもしれない。そんな思いを妻に伝えると、15歳の頃から彼を知っている妻は「それが本当にやりたいことなの?」と彼を責めたのだという。普段はおとなしい妻は語気を荒くした。「本当にやりたいことをやってみなよ。でも三年だよ。本気で三年間やって芽がでなかったら、車いすでできる仕事を探して働いてもらう。それまでは私が働いてなんとかするから」。そう言って、彼女は、トラックで食料品などを配達する仕事を始め、一人で家計を支えてくれたそうだ。

 高橋氏は、会社を辞め、元々詩を書くことが趣味だったことを活かして作詞家を目指すことにした。毎日、ノルマを決めて詞を書き、ある程度の作品数になると、それをまとめて、あらゆるレコード会社や音楽出版社、作家事務所などに送り続けた。半年後、彼の努力が実を結び、事務所と契約を結ぶことには成功した。

 しかし、作家事務所に契約したからといって、すべてが上手くいくほど、ラクな世界ではない。各アーティストの制作サイドから来るほとんどの依頼がコンペ形式で行なわれる。100個のコンペに挑戦して、1つ選ばれれば良いという世界。書いても書いても採用されることなく1年近くコンペに応募するだけの日々が続いていたが、ある日、作詞曲が有名アーティストのアルバムの1曲となった。そして、少しずつ作品が採用されるようになり、今では作詞によって生計を立てられるまでになったのである。

 人間は、何かやりたいことがあっても何か言い訳をして挑戦を避けがちだ。高橋氏の姿を見ていると、全力で夢へと突き進むその姿勢に敬服させられる。彼は、自身の半生を振り返りながら、「歩けなくなって良かった」と言う。そのおかげで作詞家になることができた。妻のおかげで、ありのままの自分でいられた。夢を叶える勇気をくれたのは、家族の存在だった。自分自身と向き合った人間だからこそ、人を魅了する詞が書けるのだろう。そんな彼が描く詞からは生きる力強さ、人を愛することの美しさが滲み出ている。

文=アサトーミナミ