【進学校「麻布」のスゴさ】校則がない! 600万円超の予算を生徒が管理!

社会

公開日:2014/12/7

   

 実にうらやましい――。『「謎」の進学校 麻布の教え』(神田憲行/集英社)を読んだ人の多くは、こう思うかもしれない。何しろ、麻布という学校はとにかく自由闊達で校則もなく、髪の毛を染めたってかまわない。ベタな言葉で言えば、生徒の自主性をとことんまで重んじている学校なのだ。行儀よくまじめなんてできやしなかった元高校生の読者にとっては、あまりにもうらやましい環境なのである。

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 この本は教員や生徒、OBなどへのインタビューをもとに、日本でも屈指の進学校「麻布中学・高等学校」の教育方針がいかに独特で個性的なものかを述べている。

 少しだけ中身を引いてみよう。例えば、理科の授業では中学1年で化学と生物、中学2年で物理と地学を学ぶという。大学受験の準備のようにも見えるがさにあらず。それぞれ専門性の高い教員が本質から理解できるような授業を展開していくのだ。他の科目でもそれは同じで、社会科ならば高校1年時に各自がテーマを設定してそれに関する論文を書く「修論」がある。まるで大学の卒論のようだが、実際に不真面目な大学生が参考書とネットのコピペで書いた卒論と比べれば遥かにハイレベルなものなのだろう。

 と、こんな具合で見てみると、「やはり進学校、本来中学高校でやるべきカリキュラムなんてあっという間に済ませてしまうのだ」と思うかもしれない。

 だが、麻布の本質はそんなところにはない。そもそもこうした一風変わった授業も、決して大学受験(もっと言うなら東大受験)に直接役に立つようなものではないし、麻布の教員たちも東大に合格させるためにこうした授業をしているわけでもないのだ。

 麻布の真骨頂は自由な校風だ。校則はなく、服装や髪の毛の色はすべて自由。クラブ活動や文化祭などの運営は生徒の裁量にゆだねられており、特に文化祭では600万円を超える予算をすべて生徒たちが分配して管理するという。文化祭もクラス単位で“高校生らしい”出し物を、なんていう発想はなく、自分たちが楽しいと思えるものをやっている。そして、教員たちもクラブ活動や文化祭活動に熱中する生徒たちに「勉強しろ」と言うこともなく、むしろそれを奨励しつつ見守っている。もちろん問題を起こした生徒を「腐ったミカンは放り出せ」などと言って退学させることはなく、中高6年間最後まで丁寧に面倒を見てくれる。こんな高校に通っていれば、尾崎豊も夜の校舎の窓ガラスを壊して回ろうなどと思わなかったに違いない。

 麻布がこうした教育方針を取っているのには、もちろんワケがある。この本では、「“自由に生きよ”ということだ」とまとめているけれど、つまりは世の中の流れになんとなく流されて生きるのではなく、自ら“自由”な生き方ができる人を育てたいということのようだ。そして、そのためにはただ自由奔放なだけではなく、“考える力”を育てる教育が不可欠、ということなのである。

 となると、「結局知識詰め込みの教育は間違いってことじゃんか」と言う人もいるだろう。確かに、麻布をはじめとする歴史ある進学校では、知識詰め込みではなく考える力を養う教育で結果を残し続けている。けれど、それはある意味間違っている。

 考える力がいくらあっても、考えるための材料となる知識がなければそれはムダである。つまり、麻布の生徒たちは知識の詰め込みをしなくても自分から新たな知識を取り入れようとする意欲を持っているということだ。そして、学校側もそんな知識欲に溢れる連中を入学させているのだから、あとは自由な校風の中で考える力を身につけさせればいい、というわけである。

 麻布の教育方針は、はたから見ればとても魅力的である。もちろん、本書の中では最近の生徒たちに対する教員のジレンマや悩みも出てくるけれど、生徒の非行に頭を悩ませる高校の教員と比べればある意味贅沢な悩み。いかに教師の目を盗んで悪事を働くか、校則やぶりをするかを考えていた元高校生にとってもうらやましい限りだ。

 けれど、ただうらやましいからと言って、他の高校や家庭でもマネができる話でもない。何しろ、麻布に通う生徒たちは凡人ならざるほどの知識欲を持っているのだから。

 つまり、麻布をはじめとする多くの歴史ある私立の進学校は、自由な校風で知識の詰め込みをせず、さらにクラブ活動なども存分にしつつ、それでも難関大学に合格するだけの力を持つ生徒が通っているということ。やっぱり彼らは普通ではないのだ。我々の様な凡人には、とてもマネできない。

文=鼠入昌史/Offce Ti+