「僕は壊れたロボットの中で操縦に困っている人」自閉症の当事者が語るその内面世界

文芸・カルチャー

2015/1/25

 会話ができない人は、何を考えているか考えたことはあるだろうか。たとえば、言葉にならない声をあげる人。また予測できない動きをする人。偏見を持つつもりはないが、いわゆる健常者(定型発達者)とは違う行動に、かけ離れた目で見てしまう。

 そんな心の距離感をグッと縮めるのが、エッセイ『跳びはねる思考 会話のできない自閉症の僕が考えていること』(東田直樹/イースト・プレス)である。

 著者の東田氏は、重度の自閉症のため会話が困難だ。だが文字盤やパソコンを通じ、思いを文字に託すことができる。2007年に出版された東田氏の初めてのエッセイ『自閉症の僕が跳びはねる理由』(エスコアール)は、世界20カ国以上で翻訳され、各地でベストセラーとなった。アメリカ・カナダのAmazonでは1位を獲得。その理由は、今まで理解されなかった自閉症者の内面を描いたから、だけではない。エッセイとして、普通に面白い作品だからだ。マイノリティの作家だからと、先入観を持たずに読んで欲しい。

 2014年に発売されたこの本に書かれていることは、日々の発見や自閉症当事者としての思いである。だが彼の視点は、異端ではない。多くの人と通じるうえに、優れた洞察力で、読み手の世界をも広げる。それは自分の思い込みを外すことであったり、生きる喜びを再認識する言葉であったりする。

 例えば、奇声を発したり跳びはねることをこう説明している。

「僕は、まるで壊れたロボットの中にいて、操縦に困っている人のようなのです」

 本人は人々に奇異な目で見られる行動はしたくないのだ。そして周囲からの視線にも気がついている。

 また、あいさつがうまく交わせないのは、このように見えるからだ。

「人も風景の一部となって僕の目に飛び込んでくるからです」「山も木も建物も鳥も、全てのものが一斉に、僕に話しかけてくる感じなのです」「それは言葉による会話ではありませんが、存在同士が重なり合うような融合する快感です」

 当事者には、世界はこのように見えるのだ。風景が融合するような感覚とはいったいどのようなものか。思わず体験してたくなるだろう。

 さらにひとつのものに、注意をうばわれる「こだわり」の行動もこう説明する。

「時間の流れがわからない僕にとって、季節の移り変わりは、目で見て確認するものです」。目をきょろきょろ動かし、耳をそばだてるのは、「頭の中にある夏のイメージと、目で見ている景色が一致」することを確認するため。「いつもの夏と違うことが起こらないように、僕は四六時中見張っておかなければなりません」「何のためにこんなことをしているのか、自分でもわかりません」「そもそも人は全ての行動に理由などつけられるのでしょうか」

“ふつう”の人でも、吸い込まれるような空の青さに、波打つ水面に心を奪われることはある。その理由はうまく説明できないだろう。

 東田氏は、自己を客観的に見るだけではなく、世間を俯瞰した視点で見つめる。そのまなざしは温かく、読み手を優しく鼓舞する。

「人は生きていく中で、さまざまな困難に遭遇します。それを“必然”と受け止めるか、“偶然”とうけとめるか」。これらは正反対のようで実はとても近い。なぜなら「両方とも物事が起きてから、どうしてそうなったかの理由をあとづけするものだからです。その結果、自分にはどうしようもなかったのだ、という答えを導きだそうとします」

 例えば先天的な脳機能障害のように、人の力ではどうにもならないことが人生では起きる。しかし物事の解釈はいかようにでもできる。ならば少しでも良い方に解釈し、それを生きる糧にするべきではないかと、問いかける。

 そう、人間は考える葦なのだ。考えて自分の世界を広げることこそが根源的喜びではないか。そこにハンディの有無は関係ない。

「僕がどんなに高く跳びはねても、それは一瞬のことで、すぐに地面に着地してしまいます。なぜなら、体というおもりがついているからです」
「しかし、思考は、どこまでも自由なのです」

 人の精神世界の豊かさを改めて実感させられる一冊である。

文=武藤徉子