官能WEB小説マガジン『フルール』出張連載 【第74回】一穂ミチ『青を抱く』

公開日:2015/2/10

一穂ミチ『青を抱く』

 静かな海辺の街で暮らす和佐泉(わさいずみ)は、日課で海岸を散歩途中にひとりの男と出逢う。少し猫背の立ち姿、振り向いて自分を映した黒目がちの瞳―― その男・叶宗清(かのうむねきよ)は、海での事故以来、2年間目覚めないままの弟の靖野(しずの)に良く似ていた。旅行中だという宗清と話すうち、その飾 らない人柄を疎ましくも羨ましく、眩しく感じるようになる泉だったが……。

 光と水に洗われたら、この世のほとんどのものは美しく見える。コンビニのビニール袋、片方だけのスニーカー、どんくさいくらげ、なぜか年がら年中見かけ る花火の残りかす。それらは海藻に混じって浜辺にのっぺり寝そべり、濡れた砂粒を、いっそ誇らしげに見えるほどきらきら光らせながらまとっているのだっ た。放っておけばまた満ちた波にさらわれ、どこかへ流れ、あるいは間違えて魚の腹に入ってしまうかもしれない。

 泉(いずみ)は半透明のポリ袋片手に波打ち際を歩きながら、足元の漂着物を拾っていく。ビーチコーミングとかじゃなく、ただ捨てるために。あんまり大き すぎるもの、生き物の死骸、分別に困りそうなものは無視する、大きくルートを外れてまでピックアップしない……いろいろと自分に都合のいいルールを設定し ているので苦にはならない。あっという間に手はじゃりじゃり汚れ、遠くから眺めていた時の輝きはかけらもない。ごみはただのごみだ。

 でも、海辺に訪れたもの、が何だか特別に思える気持ちは分かる。自分に見つけられるために旅をしてきたような気がするから。丸い石だの、英語のラベルが かすかに残った空き瓶だの、ライターだの、昔は競って探した。映画や小説に出てくる手紙入りの小瓶なんてものはとうとう見つけられなかったけど。

 陸地に向かって二キロ弱丸くえぐれ込んだ海岸線を歩き、三十リットル容量の袋にごみを拾う生活を、かれこれ一年半ぐらい毎日続けているのに、泉の印象で は、浜は特にきれいにも汚くもなっていないと思う。環境保全という大それた気持ちはなく、単なる散歩のついでに過ぎないから落胆はしないが、やってもやら なくても同じなのかな、と考えてしまう時がある。

 でもすぐに、そんなのは今の自分が判断できるものじゃない、と思い直す。今している行動の思わぬ化学反応は十年後現れるかもしれない、泉に分からないか たちで現れるかもしれない。やってもやらなくても同じように見えることなら、やるほうを選ぼう。ごみを拾い続けるのと同じぐらいの頻度で泉はそう自分に言 い聞かせている。もはやまじないみたいなものだ。

 いつの間にか腕がだらりと下がっていて、ごみ袋を砂浜にずるずる引きずってしまっていた、振り返ると数メートル、浅く這った跡が残っている。一回波が寄 せてくればすっかり消えてしまう程度に。明け方まで仕様書の校正をにらんでいたせいか、すこしぼんやりしている。海面を撫でる朝日はまだやわらかいが、昇 りきってしまうとまぶしくて目がしぱしぱするかもしれない。

 さっき見落としていたらしい単三の乾電池を拾い上げて再び向き直った時、波打ち際に立つ男の存在に気づいた。進行方向の先にいるので、ずっと見えてはいたのだけれど、一度視線を外したことで初めてちゃんと認識した、そんな感じだった。

 散歩ルートで遭遇する地元民とは大概顔見知りだが、その誰でもなさそうだ。観光客かもしれない。春先だから、遊泳禁止の看板に気づかず(あるいは無視して)波に分け入っていくおそれはないだろう。

 あ、ちょっと似てる、と思った。パーカーのこんもりしたフードから首を突き出すように、すこし背中を丸めて海を眺めている立ち姿が。その時点では、海辺 にいる若い男がみんな似てるように見えてきたのかも、と自分に苦笑していた。けれど近づくにつれ、その感覚を無視することができなくなっていった。

 ジーンズの前ポケットに手を突っ込む時の肘の角度、ポケットからはみ出した親指の爪の形。足の開き幅、角度。些細な要素のひとつひとつが懐かしさの大波になって泉を頭から呑み込んだ。男の五歩手前で動けなくなった。

 そんなわけがない、と頭では理解しているはずだったのに、男が水平線から目を逸らしてこっちを見た瞬間、泉は声に出さずにいられなかった。だってこの黒目がちな目、すこし鷲鼻ぎみの鼻、いつも両端がわずかにきゅっと上がった、大きい、というより長い印象の口。

 

2013年9月女性による、女性のための
エロティックな恋愛小説レーベルフルール{fleur}創刊

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