「道徳」に成績をつける必要はあるのか? 伝説の小学校教師が語る道徳教育に大切なこと

社会

公開日:2015/2/17

 小学校の「道徳」が、早ければ2018年度にも教科化される見通しと発表された。これまで、道徳は「特別の教科」扱いで、国語や算数など正式教科のように「評価」がされなかった。「生命を大切にする心や他人を思いやる心、善悪の判断などの規範意識等の道徳性を身に付ける」という道徳教育の特性上、特定の価値観の押し付けにつながる評価は好ましくないという意見が根強かったからだ。ところが、重大な少年犯罪の多発や、加速する家庭の教育力低下などの社会的変化によって、数年来の議論がついに実現される運びとなった。

 道徳に評価はなじむのか。効果は上がるのか。専門家の間でも賛否が分かれている。だが、よりよく生きるための「徳目」を指導する道徳が重要な授業であることには変わりない。評価方式が導入されるのであれば、点取り虫を生み出さず、道徳の本質が子どもたちの心に浸透するよう、いっそう意味がある授業を展開しなければならない。

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 ありきたりの勧善懲悪的な「よい話」は子どもの心には入らない。絵に描いた餅になってしまう。『子どもたちが身を乗り出して聞く道徳の話』(致知出版社)は、そう切り出す。執筆したのは、小学校教師歴じつに32年の中で、学級崩壊に瀕したクラスの立て直しを数々成功させてきたことから、“伝説の小学校教師”と仰がれるベテランだ。本書には、子どもの心に“伝わる”“残る”実践的道徳教育が「自尊」「友情」「奉仕」「忍耐」「命の尊重」ほか、テーマにわけて31例、紹介されている。

 たとえば、「自尊」をテーマにした授業。「もう私なんか死んだ方がいいんだ」「私なんか何をやってもダメだ」が口癖の小学生がいるとする。その子どもを支配しているのは、自尊とは正反対の「自己卑下」。授業で「自尊」について考えさせたい。このようなときに、「そんなことはないよ、親も先生も君のことを愛している」というメッセージを伝え、温かく抱きしめてやるのは、よく出される処方せんの一つであり、それはそれでよいと認めつつも、肝心の「自尊の念」は育まれないという。

 ときに自己卑下型の子どもは、愛情不足と共に、それを隠れ蓑にした努力放棄の傾向が見られるとしている。何も能動的にやらずにいて「死んだ方がいい」と放言しているので、愛情不足が解消されたとしても、宿題をやってこない、作業が乱雑、みんなのために働かない、といった消極的行動は解消されないのだ。

 「自尊」をテーマにした授業では、自分が自分を好きになれるかどうか、さらには尊敬できるようになれるかどうかが根本的問題であると説明しつつ、「目玉おやじ」という紙芝居の展開を勧めている。自分の頭の中には「目玉おやじ」のような「もう一人の自分」がいて、自分がすることすべてを見ている、ということを、絵で説明するのだ。イメージを使って子どもの心に「する自分」と「見ている自分」が同居していること、そして、他人にはわからなくても目玉おやじはごまかせないことを浸透させることで、自尊の念が育つ。

 勘が良い人はお気づきだろう。このやり方は、「エンマ様はごまかせない」という昔ながらの教えと同じだ。今の子どもに伝わる大胆な工夫を凝らした豊富な教育実践のエッセンスは、家庭や地域、企業など幅広いシーンで活用できるはずだ。

文=ルートつつみ