『ジョーカー・ゲーム』の番外編が読める! 柳 広司書き下ろし新作を無料公開

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2015/3/6


とある広場で“あの人”


今月の“あの人”は…「ジョーカー・ゲーム」シリーズ

島野亮祐(しまのりょうすけ)

『ジョーカー・ゲーム』 柳 広司 / 角川文庫

大日本帝国陸軍の上級将校である結城中佐が設立したスパイ養成機関“D機関”。軍隊の常識を覆す独自の方法で訓練されたスパイたちは各国に飛び、現地に溶け込み、“見えない存在”となって諜報活動に従事する。世界のさまざまな国で過酷な任務を遂行する彼らの活躍と、彼らを指揮する結城中佐の底知れぬ魅力を描いたシリーズの第1作。島野は、第3作『パラダイス・ロスト』の「誤算」に登場。ナチス・ドイツに占領されたフランスに日本人留学生として送り込まれた彼の任務とは?

「ジョーカー・ゲーム」シリーズ番外編

シガレット・コード【第一話】柳 広司


写真提供=Getty Images

 一瞬、違和感を覚えて、島野亮祐(しまのりょうすけ)は足を止めた。

 通り沿いの商店のショーウィンドウを覗くふりをしながら、背後の状況を確認する。

 ガラスの表面に尾行者の姿が映っている。ぎょろりとした目、冴えない服装の小柄な中年男だ。あれは――。違う、秘密警察ではない。基本的な尾行の仕方も知らない素人。おそらく一般市民だ。

 島野は軽く首をかしげ、ショーウィンドウから顔をあげた。

 たったいま、モンパルナス駅近くのカフェで伝書係(クーリエ)と接触したばかりだ。

 カフェを出た瞬間から尾行者の気配には気づいていた。スパイ活動に裏切りは付き物だ。情報提供者が寝返る可能性は常に存在する。情報提供者に〝売られた〟リスクは覚悟していたのだが――。

 一般市民に尾行される事態は予想外だった。

(なるほど。これが外国の軍隊に占領されるということか)

 島野は皮肉な笑みを浮かべ、ポケットから煙草を取り出した。

 何もせずに道端に突っ立っている人物は目立ち過ぎる。

 煙草に火をつけ、一服する。

 これで誰も気にしない。

 尾行者の存在を視界の隅に捉えながら、島野はそれとなく周囲を見回した。

 パリの目抜き通り、シャンゼリゼ。だが、目につくのはドイツの国旗ばかりだ。ドイツ語の交通標識や、「ドイツ将校専用」と表示されたレストラン。きわめつけはエッフェル塔のてっぺんに翩翻(へんぽん)とひるがえるハーケンクロイツ旗だ。

 あらゆるものが、ドイツ軍によるパリ占領の事実を告げていた。

 一九四〇年六月十四日。ドイツ軍がフランス国境を越えて電撃的に侵攻。フランス側の油断と戦略ミスが重なり、パリは実質上〝無血開城〟でドイツ軍に明け渡された。

〝花の都〟と呼ばれた文化都市パリは、一夜にして外国の軍隊が支配する街になった。そこでは、力を持つ者にしっぽを振るあさましい連中が必ず出てくる。たとえば密告者――時の支配者に媚び、社会の異端者を恭しく差し出す者たちが。万国不変の真理。自由、平等、博愛を掲げるフランスでも、その状況は変わらない。

 島野の後をつけている男はたぶん、ドイツによる占領前からアジア人に好意を持っていなかったのだろう。だから、たまたまカフェで見かけた〝アジア人〟島野を尾行してきた。

 少しでも怪しいと思えば、男は秘密警察に駆け込むはずだ。占領ドイツ軍が、フランスの秘密警察を使って密告を奨励しているのだ。確かな証拠など必要ない。疑わしいと思うだけで充分だ。報酬は百フラン。わずかな小銭をかせぐためだけにも、男は島野を密告しかねない――。

 やっかいだな。

 島野は立ちのぼる煙草のけむりに目を細めた。

 情報の受け渡しには万全を期している。カフェで受け取ったメモには、情報提供者から提示された接触の場所と時間が暗号で書かれていた。島野はメモを一読、内容を暗記して、その場で燃やしてきた。たとえいま尋問されても困ることは何もない。だが――。

 島野が持っているパスポートは偽物だ。日本からの私費留学生という経歴も偽(にせ)なら、島野亮祐という名前も偽名だった。

 外国に潜入したスパイはその存在自体が違法だ。万が一正体がばれれば、闇から闇に葬り去られる……。

 ショーウィンドウに目をやると、冴えない服装の中年男が相変わらず偏執的な目つきで島野をじっと見つめていた。

 煙草を唇の端にくわえたまま、島野は踵を返し、男に背を向けて歩きだした。

 尾行者の気配が背後についてくる。

 一度密告者となった者は自分の身を護(まも)るために堕(お)ちていく。彼らは一度目をつけた相手を偏執狂的につけ回し、何としても怪しいところを見つけだそうとする。本末転倒も甚だしいが、密告という行為には麻薬にも似て、どこか理屈の通らない狂ったところがある――。

 ここから先はわずかな判断ミスが命取りになる。

 情報提供者が伝書係を通じて指定してきた接触日時は〝三日後〟の〝夜十時〟だ。

 それまでに、何か手を考えた方が良さそうだった。

※リンク先のJT「ちょっと一服ひろば」は、満20歳以上のたばこを吸う方に向けたウェブサイトです。作品の他、たばこに関する情報が掲載されています。


やなぎ・こうじ●1967年生まれ。2001年『黄金の灰』でデビュー。同年、『贋作「坊っちゃん」殺人事件』で朝日新人文学賞を受賞。09年『ジョーカー・ゲーム』で吉川英治文学新人賞と日本推理作家協会賞をダブル受賞。作品に『新世界』『ロマンス』『ソクラテスの妻』『ナイト&シャドウ』『ラスト・ワルツ』などがある。