よしもとばなな流46この幸福論。“どんな境遇にあっても、幸せを数える方法”

文芸・カルチャー

更新日:2017/11/21

人は、つい幸せな時とそうじゃない時があると思いがちだ。「友が皆 我より偉く見ゆる日よ 花を買ひ来て妻と親しむ」と詠んだのは石川啄木だけれど、逆境にあってこそしみじみと感じられる幸せもある。いや、むしろ、順風満帆に来た人ほど不平不満を数えがちで、つらい思いをしてきた人の方が幸せをよく知っていたりするものだ。そんなふうに思うのは、たぶんある程度、年齢を重ねてきたからだろう。よしもとばななさんのエッセイ『小さな幸せ46こ』(中央公論新社)で描かれているのも、大人になった今だからこそ気づく幸せ、若い頃だったら、もしかしたら気づかずに通り過ぎていたかも知れない、ささやかでかけがえのない幸せだ。

「大人になると子どもだった頃みたいには無邪気にものが考えられない。だからこそ、小さな幸せは“なん個”と子どもみたいに数えたい。それがタイトルに込めたかった小さそうで大きな意味だ。小さい女の子がしゃがんで小石を数えているみたいな無心さで幸せを見つけられたら、その人はどんな境遇にあっても決して不幸ではない」

数えられるほどの幸せ、それはたとえば子どもがちっちゃかった頃、くっついて眠ったその時にいつも触っていたふくらはぎの感触。ビートルズを聴くたびに、脳内でリフレインされるのは夏が来るたびに家族で行った西伊豆の海の思い出。いつもビートルズを流している喫茶店に通い過ぎたため、記憶に刷り込まれ、パブロフの犬状態になってしまったというわけだ。音楽の中にもう二度と帰ってこない家族の一番いい時代が真空パックされているというのは、案外誰にでも起こりうることかもしれない。疲れて、どこにも行きたくないと思っていた夜、友人に誘われてしかたなくでかけた店で、会いたかった人といい時間を過ごす、そんな思いがけない幸せもある。

「これ、どうしようかな」と自分用に買ったものを、でも、せっかく会えたから、楽しかったから、やっぱり、あげたくて迷う、その気持ちの中にも、ぎゅっと幸せが詰まっている。

読みながら、ふと思うのは、自分からとりにいった幸せって、あまりないのかもしれないな、ということだ。幸せというのは、時の流れがくれる偶然の贈り物のように、ふと気づくと、そこにある。

うたかたの中にあるせつなさを宝物として差し出してきたこの作家ならではの名人芸のような手際につられて、読者もきっと記憶の中にある幸せを、ひとつ、またひとつと思い出すのではないか。

「今この世の商売のほとんどが“自分をみすぼらしく思う心”につけこんでいるということだ」という指摘にドキッとする。こんな自分ではダメだ、もっと、もっとと思うせいで見逃していることが、きっとたくさんあるだろう。

どんな幸せも、本当は期間限定。今だけ、あの時だけ、あの一瞬だけそこにあって、消えてしまう。はかないけれど、だからこそ、こんなにもいとおしい。そういう時間を繰り返しながら、私たちは生きているということ。ぼろぼろでも、よれよれでも、そんな今の自分を「幸せ」と呼ぶ気持ちを、この本は教えてくれる。

文=瀧晴巳

小さな幸せ46こ』(よしもとばなな/中央公論新社)