中高生と中高年に贈る1冊! パンチパーマな青春を謳歌せよ!

文芸・カルチャー

2015/4/2

新学期。フレッシュな制服姿の高校生を見る度に小さな後悔が胸でうずく。高校入学直後に運動部を辞めて帰宅部となり、恋愛もできず、勉強もろくにしないまま卒業してしまった。「二度と戻れない青春への憧れ」だけが、今もくすぶり続けている。青春とは何だ? 同じような思いを抱いている大人はごまんといるはずだ。だから、世の中には学園モノのドラマや小説があふれている。

鬼塚パンチ!』(鬼塚忠/KADOKAWA)も、数ある青春小説のひとつだ。鬼塚でパンチと言っても、ボクシング小説ではない。本書は、高校生なのにパンチパーマにされてしまった理髪店の息子でサッカー部所属の鬼塚隼人(ハヤト)の青春ラブコメ。なんともパンチのあるつかみだが…高校生がパンチにするなんてありえない! もちろん主人公のハヤトだって同じだ。だが、ドレッドヘアで、ギター片手に商店街のCMソングとLove&Peaceを奏でる「オヤジ」の策略により、ハヤトは寝ている間に「パンチパーマ」をかけられてしまうのだ。初デートの前夜に! 商店街振興の旗手たるオヤジは、地元の祭りにハヤトを参加させるためパンチをあてた。「御輿にはパンチだろ」という理解不能のポリシーのもとに。

その日を境に、ハヤトの高校生活が崩れていく。学校生活も恋愛も部活も上手くいかなくなり、ハヤトはピンチに次ぐピンチに直面することになる。ハヤトの高校生活やいかに―?

ハチャメチャなコメディとして楽しく読みながらも、筆者は何度も首をひねった。

突っ込みどころが多過ぎるし小説としてどうよ、という部分もあるが、まあ目をつぶる! だが、問題なのは、本作の肝たる「パンチパーマ」だ。無理やり過ぎる上に必然性がない。百歩譲って「御輿にはパンチ」「オヤジには逆らえない息子」だとしても、祭りの翌日、パンチのまま登校するハヤトの気持ちが理解できない…。「高校生でパンチって面白くね?」という出落ち感がハンパなく強いのだ。

そこで、考えてみた。なぜ「オヤジはハヤトにパンチパーマをかけなくてはならなかったのか?」と。そこに、この物語の本質があった。

作中では、おっさんたちが羨ましいと感じる状況や事件が、ハヤトの身に次々と起こる。だが、十代の若者に感情移入するのは、実は難しい。そこで、同世代の「オヤジ」に自分を重ね、ハヤトを見守るつもりで読んでいくと、なにか物足りない自分に気づく。

「戻れないと口では言いながら、断ち切れない青春時代への悔い」が、そこに浮かび上がってくるのだ。だったら! 諦めずに、恥ずかしがらずに「青春時代へ飛び込めばいいじゃないか!」と、著者が思ったかどうかはわからない。だが、ハヤトの「オヤジ」はそう思ったのだ。

だから、大問題になるとわかっていながら、オヤジはハヤトにパンチをかけたのだ。それが学校で問題になり、ハヤトがピンチに陥った時、オヤジは自ら救いに行くのだ。完全にマッチポンプだが、オヤジは関わらなくてはならなかった。諦めた夢を、青春を取り戻すために。詳細は本編で楽しんでいただきたいが、クライマックスで、オヤジは言う。

「子供が持つ大きな夢は、きっとすべての大人の誇りなんだ。(中略)夢に向かって努力するところに、人間としての幸せがあるんじゃないですかねぇ」

そして、オヤジはもっと恥ずかしいことを口にする。

「実はせがれを見ててね、オイラも、今からでも夢を見てやろうって気になったんですよ」

そう、これこそが、この古臭い自伝的小説で鬼塚氏が伝えたかったというメッセージなのだ。冷めた心に熱いコテでパンチをあて、見栄も外聞も捨てて夢に突き進めと! それは、現役の学生にも、かつて学生だった大人たちにも通じる、熱いメッセージだ。

あらためて問う――青春とはなにか?

「青春とは人生のある期間を言うのではなく、心の様相を言うのだ。優れた創造力、逞しき意志、炎ゆる情熱、怯懦を却ける勇猛心、安易を振り捨てる冒険心、こう言う様相を青春と言うのだ」(『青春』詩:サミュエル・ウルマン/訳:岡田義夫、より引用)

かのマッカーサー元帥も座右の銘にしていたというこの『青春』を、ウルマンが書いたのは、80歳を越えてからだった。

大人たちよ。悔いがあるなら、今からでも青春を取り戻しに行こう。現役の若者たちよ。こんなオッサンにならないように、今、青春を全力で生きよう! そして商店街の片隅で、今日も歌おう。

「ジャーラスタファーライ。ワンラーブ♪」

ラストの謎の歌詞の意味、オヤジの本当の歌声が聴きたい人は、本書を最後まで読んでね!

文=水陶マコト