かつての政治家たちが新幹線建設に反対していた理由 ―一筋縄ではいかないその歴史

社会

更新日:2015/4/8

 なぜだか日本人は新幹線が大好きだ。毎日通勤やらで利用しているという人はともかく、大半の人は新幹線に乗ればなんだかワクワクするに違いない。目的が旅行であろうが帰省であろうが出張であろうが。今年3月14日に北陸新幹線長野~金沢間が延伸開業した際、なんとも言えないお祭りムードに包まれたというのも、そんな新幹線特有のワクワク感があるからではないだろうか。

 だが、歴史をさかのぼって半世紀、まだ東海道新幹線が登場していない頃。新幹線の建設は“三大馬鹿のひとつ”などと言われて猛反対されていたという。

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 何しろ、新幹線を作るのにはお金がかかる。昭和30年代、日本の国家予算が2兆円程度だった時代になんと3000億円もかけて新しい鉄道を作ろうというのだから、反対論が噴出するのもよく分かる。その上、当時は自動車と飛行機が一気に一般にも普及していった時代。モータリゼーションもどんどん進み、東京と大阪を結ぶ航空路線も庶民が利用しやすいお値段になっていた。そんな時に、とんでもないお金をつぎ込んで新幹線を作るなんて、ワクワクするどころか荒唐無稽で無茶苦茶で支離滅裂……と当時の人が思ったというのも無理はない。

 さらに『新幹線の歴史 政治と経営のダイナミズム』(佐藤信之/中央公論新社)によれば、一般人のみならず政治家たちの反対も少なからずあったという。今でこそ、“新幹線=政治の産物”みたいなイメージもあるけれど、当時新幹線建設を推し進めた十河信二国鉄総裁は必死になって反対論をくぐり抜けて新幹線建設にこぎつけたのだ。

 なぜ政治家たちは反対したのか。その辺りの事情とその後の動きを、『新幹線の歴史』を参考に追いかけてみよう。

 当時の政治家は地元に在来線を通すことに躍起になっていた。「新幹線なんてものにお金と労力を使うくらいなら我が選挙区にも在来線の鉄道を作れ!」というわけだ。

 しかし、国鉄サイドにも新幹線を作らなければいけない理由があった。それは、東京~大阪間を結ぶ東海道本線の輸送力が限界だったからだ。高度経済成長まっただ中の日本経済。東京・名古屋・大阪間の人や貨物の移動量は加速度的に増加し、すでにあった東海道本線では捌ききれなくなっていた。そんなわけで、新幹線を作らなければどうにもならないという状況だったのだ。

 そんな綱引きの結果、国鉄サイドが押し切って東京オリンピック直前の1964年10月1日に東海道新幹線は開業した。

 すると、である。

 東京と大阪を4時間(開業翌年には3時間10分)で結ぶ超特急の出現に、日本中が沸き返った。興奮した。何しろ世界一の高速列車である。おかげで経済界も人や物の往来がスムーズになって大喜び。きっと政治家センセイたちも、地元選挙区に帰りやすくなって大助かりだったことだろう。続けて山陽新幹線の輸送力限界を受けて建設された山陽新幹線も、これまた大成功。このあたりで、すでに日本人の“新幹線ワクワク”DNAが構築されたのではないかと思う。

 ここまで成功が続くと、以前は反対していた連中がコロッと手のひらを返すのも世の習い。これまでは在来線輸送力の限界=必要だから新幹線という流れから急に「新幹線を作ればいいんだ!」となった結果作られたのが、東北新幹線であり上越新幹線だった。そして時はあたかも田中角栄センセイの御世。大ブームになった「日本列島改造論」の名のもとに、全国に新幹線を作る計画(整備新幹線計画)が持ち上がったのだ。

 そして今、である。あれから整備新幹線計画に基づいて、紆余曲折はありつつも北陸・九州に新幹線が新たに開業し、東北新幹線も新青森まで延伸した。『新幹線の歴史』では今後開業予定の北海道新幹線や九州新幹線長崎ルート、リニアの話題にも踏み込んでいる。

 だが、現実はなかなかに厳しい。北陸新幹線もマスコミのお祭りムードと裏腹に実際はガラガラ……なんて話題がネットにあがっていたとおり、超大動脈である東海道新幹線を除けば日本の新幹線はそれほど儲かっているわけではない。それもそのはず、もともと“輸送力が限界だから”作ったのは東海道と山陽だけで、残りは多分に政治的な思惑のもとで作られた路線ばかりなのだから。

 今後も北海道や九州、北陸の金沢以西と新幹線建設は続いていく。財政難の折だけれど、税金をちゃんと使って新幹線は作られる。これがいいのか悪いのかはわからない。けれど、きっと新しい新幹線ができるたびに沿線は大いに期待して盛り上がり、マスコミはお祭りムードに包まれて、そしてそれを見ているボクらもなんだかハッピーな気持ちになってしまうのだろう。
 それこそが、日本人が愛する新幹線の魔力、なのである。

文=鼠入昌史(Office Ti+)