昔々ある所に住んでいたお爺さんやお婆さんは幸せだったのか? 昔話にもあった現代と変わらぬ“高齢者問題”

暮らし

2015/4/19

 先日、とある取材で瀬戸内海の離島を訪れる機会があった。その島では、20世帯あまりが暮らしており、そのいずれもが高齢者世帯。70歳ともなれば島内では“若者”の部類に入るという“高齢化”の象徴のような島だ。そして、そこで高齢者たちは、体が許す範囲で“仕事”をしている。畑仕事をしたり船で漁に出たり。自給自足の島だけに、70歳になっても80歳になっても“自らの食い扶持は自ら作る”というわけだ。まさにこの島の主役は“老人たち”である。

 で、翻って東京。東京の街を歩いてみれば、さすがに瀬戸内海の離島のように“老人ばかり”などということはない。けれど、平日の日中に電車に乗ると、元気の盛りのような高齢者の姿がよく目につく。もちろん若者の元気がないわけではないけれど、それでも現代社会の主役は都会も地方も“老人たち”なのだ。

 そんな老人たちの活躍が見られるのは、何も現代社会だけではない。むかしむかし、あるところにいた、おじいさんとおばあさん。山に芝刈りに行ったり川に洗濯に行ったり、はたまた花を咲かせたり。「昔話」にはやたらと老人が登場する。古のフィクションの世界も、現代社会と同じく“老人たち”が主役級なのである。

 『昔話はなぜ、お爺さんとお婆さんが主役なのか』(大塚ひかり/草思社)は、昔話や古典文学などを材料に、昔の老人たちが実際にどのような生き方、暮らし方をしていたのか、その実態をあぶり出している。昔話はもちろん“作り話”だけれども、そこにこそ歴史の隠された真実が転がっているというわけだ。

 この本のタイトルの答えは実際に読んでいただくとして、本書の中に登場する老人たちは、とにかくアグレッシブ。姥捨て山に捨てられても戻ってきたり、年老いてなお若き美男と恋の炎を燃やしたり、極楽浄土を求めて井戸に飛び込んだり。ただでは死なないパワフルなじいさんばあさんが、歴史の中にはどうやらたくさん存在していたのだ。

 ただ、そんなパワフルじいさん、ばあさんたち、決して“幸せ”だったわけではないようだ。

 そもそも、古の時代に高齢者たちに年金が支払われていたわけでないし、よほど裕福な貴族の出でもなければそれこそ食い扶持を自ら稼ぎ続けなければ生きていくことができなかった。さらに、社会全体の生産力が低い時代、年老いて健康を害した老人たちは、社会的に見れば“マイナス”の存在でしかなかった。子が親を捨てる、いわゆる“棄老”も、一家が暮らしていくことを思えば一概に非難ばかりもできなかろう。

 さらに、男女の“格差”も問題。古代中世は未婚の高齢者が多く、特に高齢の独身女性は悲惨な生き様を余儀なくされたのだという。そのため、婚活に明け暮れる女性は古来より多くいたのだとか。

 こうしてみると、この本の中に出てくるじいさん、ばあさんたちのアグレッシブさは、社会的弱者である高齢者が、歴史の中でも厳しい立場に置かれていたことの裏返しとも読み取ることができる。

 そして、今。高齢者たちが街に溢れ、地方では年老いても野良仕事を余儀なくされ、高齢の独身者が増加して婚活が一大ビジネスになっている。さらに、高齢の親を高齢の子が介護する“老老介護”なる生産性とは真逆のような問題も生じている。これはまるで歴史の中の“老人たち”そのものではないか。権力を求めて死の間際まで闘争するのもまた、昔と今とまったく変わらない。

 どうやら、日本の社会というものは古来よりあまり変わっていないようだ。なかなか難しいけれど、パワフルでアグレッシブで、だけど決して幸せとは言えなさそうな昔話の老人たちを通じて、今我々が抱えている高齢者にまつわる問題を考えてみるべきなのかもしれない。

文=鼠入昌史(Office Ti+)