民主化運動に身を投じた父はあるとき「世の中は変わらない」と強く感じてしまった【深沢潮インタビュー・後編】

文芸・カルチャー

更新日:2017/11/20

生き別れた父が、在日朝鮮人だった。ある日突然、自分の出自を知った主人公、朋美が戸惑い、傷つきながらも〈真実〉にたどり着くまでの道のりを描く『ひとかどの父へ』(朝日新聞出版)。いまでいう〈こじらせ女子〉の朋美の逡巡や葛藤がデリケートな筆致でつづられるのとは対照的に、朋美の父と母が出会った1960年代の描写は力強く、色鮮やかなイメージを残す。著者の深沢潮さんへのインタビュー後編は、その時代への想いを訊くことから始めよう。

―1964年、朋美の母・清子は通っていた美容学校のクラスメイトを通じて、杉原光男という、寡黙で謎めいた在日コリアンと知り合います。東京オリンピック、家庭にも普及しはじめたカラーテレビなど、勢いを感じるキーワードが多くちりばめられていて時代そのものへの強烈な印象が残ります。

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深沢潮(以下、深):杉原と清子が出会ったのは神奈川県川崎市の、いまでもコリアンタウンとして知られる地域です。東京でオリンピックが華々しく開かれたのと同じ時代に、マイノリティへの差別も確実にありました。2020年に再び東京でオリンピック開催が決まりましたが、差別に関していうと、この国はほんとうに当時とくらべて変わったの? 何も変わっていないんじゃないの? という疑問が私のなかにあります。はじめて自国で開かれるオリンピックに沸きたつ日本。その影で在日コリアンの人たちは、まだ日本と外交関係が結ばれていないなかで参加した祖国の選手団をどんな気持ちで見ていたのか。参加自体は誇らしくても、同時に国が南北に分断されている事実を再認識するわけだから、思うところはたくさんあったでしょうね。

―在日コリアンの一家とともに開会式を見た清子の目をとおして、時代の光と影がくっきりと浮かびあがってくるように感じました。

:時代と、そのときを生きる人の暮らしはリンクしているように見えますが、オリンピックが開かれてこれからますますいい時代になる! と誰もが思っている時代にあっても、ひとりひとりにクローズアップするとそこには悩みや葛藤があります。いいことばかりではありませんよね。時代の大きな流れと、個人の人生というのが、交わっては分かれ、また交わって……というのをくり返していくなかに、朋美も清子も杉原もいました。

そして、この川崎の在日コリアンファミリーのように、高度経済成長のさなかにあって事業に失敗し、帰国事業で北朝鮮に行く選択をした人たちもいます。彼らはその時代の〈影〉の部分を背負わされたけど、いまはそれが〈なかったこと〉になってしまっています。帰国事業のスタートは1959年ですが、2015年の現在も北朝鮮にいる家族を想いつづける在日コリアンたちが、ここ日本社会で生きています。なかったことでも終わったことでもなく、継続しているんです。私はそうした問題を風化させたくなかった。彼らはひとりひとりがこの国にたしかにいた人たちです。拳をふり上げたわけでもなく、ただ自分たちが幸せになりたくて一所懸命生きてきただけ……そのことを忘れたくないんです。

―朋美の父、杉原も時代によって大きくその運命を揺さぶられたひとりですね。勉強したくて日本にやってきて、やがて民主化運動に魂をささげ、その志ゆえに妻や子と別の人生を歩むことになりました。タイトルにも父への想いがあふれていますが、これは深沢さん自身の思いと重なるのでしょうか?

:そうですね。私の父は数年前から「お父さんは何もなさなかった」とよく口にするようになりました。若いころは杉原と同じく祖国の民主化運動に身を投じていましたが、いまは普通のおじいちゃんです。社会を変えたいという熱い思いがあったのに、あるとき「世の中は変わらない」と強く感じてしまったそうです。それよりもいま目の前の家族を養うことが大事だと気づいて、運動は辞めた、と。そうして世代をつないでくれた父親世代を私は立派だと思うし、彼らへの感謝をこの作品に込めました。

 

日本でもその世代には学生運動など、志高く活動していた人が多いですよね。でもそのうちのほとんどはその後、平凡な人生を送ります。だからといって、その人が逃げたとか、その人生が無為だったとかはまったく思いません。立派でもなく名を上げたわけでもない、ただ、そこにある生活を大事にして生きてきた人生に、私もそっと寄り添いたかったのです。おつかれさま、という気持ちを込めて。

取材・文=三浦ゆえ