容姿は関係ない? 「オタサーの姫」に必要なものとは

社会

公開日:2015/6/14

 程度の差こそあれ、「オタク」に分類される者は、たいていが中学・高校時代に辛酸をなめている。ひとえに、世の中ではオタクの地位が低く、恋愛市場において弱者になりがちだからだ。いわゆるスクールカーストの上位にいる層がモテたり彼氏彼女ができたりと青春を謳歌し、オタク層はそれを横目に何一つ冴えないまま卒業までやり過ごす。そうした者たちの間で昨今取り沙汰されている、「オタサーの姫」というキーワードがある。この「オタサーの姫」の生態や、彼女たちを取り巻くエピソードを追いかけて一冊にまとめているのが、『オタサーの姫 ~オタク過密時代の植生学~』(ジャンヤー宇都/TOブックス) である。

 本書では、「オタサーの姫」を、以下のように定義している。

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男性多数で、なおかつ外部から見たときに“オタク的”であるか、構成員が“オタク的”であることを自覚しているコミュニティに所属し、複数の男性から“ちやほやされる”女性

 なお、オタサーの姫はもともとは今以上に強烈な侮辱の言葉であり、この言葉が言われ始めた当初は「たいして可愛くもないのに、オタクたちに囲まれてちやほやされている女のコ」という意味があったらしい。

 オタサーの姫という存在を分析するにあたって、女性という生き物の扱われ方について考えたい。女性は、得てして男性よりも“品評”をされる場面が多い。本人の意志に関わらず、クラスの女の子のランキングが陰で出回り、薄っすらと順位付けを肌で感じながら学校生活を送る……なんて光景は、共学の教室では珍しい話ではない。ミスターコンよりもミスコンのほうが盛り上がるのも、AKB48総選挙がここ数年ずっと一大イベントとなっているのも、女性の品評文化ゆえではないかと私は思う。男性で、例えばジャニーズタレントの人気投票が盛り上がった過去だなんて聞いたことがない。

 品評する理由はいくつもあれど、その一つには、男性の持つ「その場で一番の女の子を女の子扱いしたい欲求」があるのではないだろうか。そしてこの欲求こそ、オタサーの姫を作る大きな要因だとも思う。本書に出てくるオタサーの姫の事例では、容姿が可愛かったり、そうでもなかったり、そのレベルは様々だ。そのサークルに女の子が一人しかいなければ、容姿に関わらずその子が一番になるし、複数いれば、容姿やキャラクターの総合点で一番が決まる。

 こうして、男性たちからの“ちやほや枠”に選ばれた女の子は、その集団の中で市場価値が上がることになる。普通の学校の教室では、いわゆる“イケてる子”がそこに君臨。それがオタク系のサークルに場がうつると、空いた枠を、オタク系の女の子の中でトップになった子が陣取る。一般社会では低かった市場価値が急上昇する。オタサーの姫の誕生である。

 本書で気になった事例として、男女比が9:1の工業高校の話がある。ここでインタビューされている斎藤さん(仮名)という20代前半の女性は、黒髪セミロングに二重瞼、著者のジャンヤー宇都氏は、「世のオタク男たちにバリモテしそうなタイプ」だと分析。だが、この女性は高校で特に“姫”化はしなかったのだという。その理由はこう語られている。「陸上部をやってたし、クラスでもうるさいほうだったんで、男のコたちに“守ってあげなきゃ!”って思わせるタイプじゃなかったみたい。(中略)クラス唯一の“姫”に対する“庶民”のポジションでした」。とはいえ、男女比の偏りゆえに「モテたといえばモテましたけど」とも発言している。やはり、その場に少数ながらも二人以上の女性がいた場合、“姫ポジション”に君臨するのは一人だけなのだろう。そして、このエピソードでのポイントは「モテたといえばモテましたけど」にあるのではないだろうか。女性が複数いる場で、一番の女の子だけを姫扱いするのは、序列を可視化することと同義。それはつまり、この斎藤さん(仮名)にとって、品評されている上に、序列の下のほうにいることを目の当たりにさせる行為である。「モテたといえばモテました」という事実があったのは、この女性にとって大きかったはずだ。

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