[カープ小説]鯉心(こいごころ)【第二十話】私の人生に、選択肢なんてなかった

スポーツ

公開日:2015/8/4

カープ小説

◆◆鯉心(こいごころ)【第二十話】私の人生に、選択肢なんてなかった◆◆

 

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【あらすじ】
文芸誌『ミケ』のウェブサイトで、カープ女子を題材にした小説を連載することになったフリー編集者の美里。熱狂的カープファンのちさとに出会い、これまでの人生で縁のなかったプロ野球の世界に入り込んで行く。2015年カープと共に戦うアラサー女子たちの未来は果たして…?

照りつける真夏の太陽と、全身から滲み出る汗。
外苑前での打ち合わせを終えた美里は、表参道に向かい青山通りを歩いている。

梅雨が明けた東京は連日、猛暑が続いている。この日の最高気温は35度。今年一番の暑さだ。肩にかけたトートバッグは、ノートパソコンが入っているためズシリと重い。クライアントからの電話に備え、右手にはiPhoneを握っている。

この道を歩いていると、ちさととはじめて会った日のことを思い出す。

あれは確か3月の、まだ冬の香りが残る、風が冷たい日だった。私はトレンチコートにマフラーを巻き、外苑前交差点の角にある待ち合わせ場所のカフェに向かった。私が先に店に着き、その10分後くらいにちさとが来た。駅から走ってきたのか、ちさとは少し息を切らし、顔を紅潮させていた。私は簡単に自己紹介をした後、『ミケ』で小説の連載をはじめること、そのため取材に協力して欲しいことを説明した。ちさとは少し照れながら、「私でよければ、ぜひ」と笑った。その日は1時間ほど話をして、1週間後にまた会う約束をして別れた。店を出た私は、今日と同じように表参道の駅へと歩いた。

それから早、4ヶ月。

それまで「野球」という二文字に何の縁もなかった私の生活に、今や野球とカープは欠かせないものになっている。プロ野球選手名鑑を買って選手を覚え、家でカープ戦を見るためケーブルテレビにも加入した。神宮球場ではちさとのカープファン仲間と一緒に、ビールを飲みながら試合を観た。横浜スタジアムではアミに出会い、雨の中一緒に観戦した。少しディープなカープ居酒屋「亀山社中」にも行った。カープを通じて、色んな人たちと出会った。あ、もちろん堂林くんとも。ともかく私にとって、この4ヶ月は新しい世界との出会いの日々だった。

そんなことを考えながら歩いていると、右手に握るiPhoneがブーッと鳴った。クライアントの担当者からの電話だ。美里はひとつ呼吸をしてから、電話に出た。

担当者の男性が妙にへりくだった口調で話をはじめたので、美里は少し嫌な予感がした。案の定、再来週の納品予定だった原稿の締切を1週間早めてもらえないか、とのことだった。「大丈夫です。了解しました」と頷く美里。私のような駆け出しのフリーランサーに、ノーと言う選択肢はない。まあ、そんなに忙しいわけでもないし、いつもダラダラしている時間を削ればいいだけの話だ。相手は美里の返事を聞くと、さっきまでの申し訳なさそうな口調が一転して軽やかになり、「ありがとうございます! 本当に申し訳ないですがよろしくお願いします!」と元気よく言った。美里は「失礼いたします」と言って電話を切ると、表参道の方へと歩き続けた。

フリーで働いている、と言うと「自由でいいね」と羨ましがられることが多い。
それは半分正しくて、半分間違っていると思う。

確かに、満員電車には乗らなくていい。いつどこで仕事してもいいし、うるさく指図してくる上司もいない。一方で、フリーランスといえども社会の歯車であることに変わりはない。ときに理不尽なクライアントの要望に応え、その代償としてギャラをもらう。身分が保証されてない分、会社員よりも立場は弱い。フリーの編集者なんて大半が、活字産業の便利屋みたいなものだ。

もっとも私は、これまで身分が保証されたことなんてない。

私は大学卒業後、中目黒にある小さな編集プロダクションで契約社員として2年ほど働いた。大学時代からアルバイトをしていた会社で、今もいくつか仕事をもらっている。本当は誰もが知るような大手出版社、とまではいかなくてもそれなりの会社で正社員として働きたかったが、就職活動は厳しかった。出版不況にリーマンショックも重なり、ろくに面接もしてもらえない。たまに面接に進んでも、これといった取り柄もない“優等生”の私には、面接官が喜ぶような面白い話なんてなかった。品定めする人間とされる人間、という構図にも嫌悪感を覚えた。それ自体は面接なので仕方ないとしても、品定めの基準が全くもってわからないことが気持ち悪かった。そんなこんなで、就職活動には早々に疲れてしまった。

編集プロダクションでの仕事は、それなりに楽しかった。契約社員ではありながら、仕事内容は正社員と変わらず、責任ある仕事も任せてもらっていた。だからこそ、正社員ではないことには引け目を感じ、不満を覚えた。働いて1年半ほど経った頃、正社員にしてもらえないか、そうでなくてもそれに近い待遇にしてもらえないか、会社に相談した。上司は「相談してみる」と言ったが、その話は適当に濁されて、自然消滅した。無理なら無理と言ってくれればいいのに、なぜ「なかったこと」にするのだろう。そう思った私は約半年後、会社をやめた。

今の生き方を私が「選んだ」と思う人もいるが、そうじゃない。
私の人生に、選択肢なんてなかった。

もっとも怪我の功名というべきか、今となっては選択肢がなかったことが良かった気もする。フリーで働きはじめてから幸いにも、仕事や人を紹介してくれたり、力になってくれる人が何人かいた。PR会社に務める大学時代の友人が、一緒に仕事ができるようにと無理をして企画を通してくれたこともある。ズボラな私だが、そんな風にして頼まれた仕事は、たとえどんなに面倒でも全力でやった。立派な肩書きも経歴もない私は、実力で信頼を勝ち取るしかなかった。何も私を守るものがなくなったからこそ、私は腹を括ることができた。そうしているうちに、編集者としての技術もかなり上がったと思う。仕事のオファーも、少しずつ増えていった。これまで地道に積み重ねてきたことは、私の中で確かな自信になっている。

逆に私は、根拠がないものには自信を持てない。
小説の連載も、最初はそうだった。

書いたことがないから、自信なんてなかった。実際に書き始めてみても、夏子には散々ダメ出しされ、書いては消しての繰り返し。ボツ原稿をこれほど書いたことは今までない。でも、そのボツ原稿の積み重ねが、少しずつ私の自信に変わってきていることも確かだ。先週夏子に会ったとき、「連載当初に比べたら見違えるような文章になった」と言われた。自分ではそんな気はしていなかったので驚きつつも、嬉しかった。時間をかけて積み重ねて、自信に変える。不器用な私には、それしかないのだ。

表参道の近くまで来た美里は、赤信号で立ち止まった。炎天下を歩いてきたせいで、頭が少しボーッとする。体内の熱気を吐き出すようにフーッと一息つくと、右手に握るiPhoneが再び、今度は短くブーッと鳴った。ちさとからのLINEだった。

「来週の神宮三連戦、よかったら一緒に行きませんか??」

プロ野球はオールスターが終わり、後半戦がはじまった。セ・リーグは相変わらず混戦模様で、カープも一進一退の攻防を続けている。来週は、約3ヶ月ぶりに神宮球場でのカープ戦。さすがに三連戦全て行く気はないけど、1試合は行こうかな。ちさとは多分、3試合とも行くのだろう。この前のオールスターも、わざわざ広島まで見に行っていたくらいだ。

「お誘いありがとう! 仕事の予定確認してから、また連絡します」

美里がメッセージを送ると、信号が青に変わるよりも先にちさとからスタンプが送られてきた。黒田博樹が笑顔で親指を挙げて「了解!」と言っている、カープファンの間で人気のスタンプだ。もっともテレビで見ている限り、こんな陽気な黒田は見たことがない。まあ、試合中は真剣な顔なのは当たり前か。信号が青に変わり横断歩道を渡り出すと、ちさとからもう一通メッセージが来た。

「そういえばこの前の原稿、面白かったです☆」

美里は思わず頬を緩めたが、すぐに表情を引き締め足早に駅へと向かった。

東京はいよいよ真夏だが、通りに立ち並ぶショップのショーウィンドウには早くも秋服が並んでいる。常に季節を先取りする、一流のファッションブランドたち。私と違って何ともスマートで、洗練された存在のように思える。でも、私には季節を先取りするような人生は向いていないし、必要ない。ゆっくりでも一歩ずつ、着実に進んでいく。それが私の生き方なのだ。

私の夏はまだ、終わらせない。

(第二十一話へつづく)

イラスト=モーセル

[カープ小説]鯉心 公式フェイスブック
【第一話】「ちさとちゃん、何でカープ好きなの?」
【第二話】「か、カープ女子…?」
【第三話】「いざ、広島へ出陣!」
【第四話】「生まれてはじめてプロ野球の試合をちゃんと見た記念日」
【第五話】「カープファンは負け試合の多い人生ですから…」
【第六話】「私も小説書きたかったんだよねえ。若いころ」
【第七話】「私たちカープファンにできること」
【第八話】「好きとか嫌いとか、にじみ出るものだから」
【第九話】「神宮球場で飲むビールは世界一美味しいのかもしれない」
【第十話】「女が生きにくい世の中で、女として生きてるだけ」
【第十一話】「ターン・ザ・クロック・バック」
【第十二話】「カープと遠距離恋愛してるみたいな感じ」
【第十三話】「カープ女子と広島焼きは、似た者同士です」
【第十四話】「毒にも薬にもならない言葉は、誰の心にも残らない」
【第十五話】「カープも私も、仕切り直しだ 」
【第十六話】「私、今日がデビュー戦なんです!」
【第十七話】「美里さんは、誰が好きなんですか?」
【第十八話】「カープファンの秘密結社」
【第十九話】「美里さん、ひとりで寂しそうだったから」