猫の気持ちがわかる人か、人の気持ちがわかる猫か。猫と人との気持ちをつなぐ『ゆる猫生活』

文芸・カルチャー

更新日:2017/11/17

 「擬猫化(ぎびょうか)」という言葉があります。「擬人化」の猫版といえばわかりやすいでしょう。そのもっとも単純な形態は、セリフの語尾に「ニャ」をつける、取りあえずキャラに猫耳をつけるなどでしょうか。「やれやれ」からセリフを始めてみたり、「横で眠る猫のため息も、そう語っている」などと書くと、それっぽく見えるとかなんとかいってみちゃったりなんかして、もう。

 軽薄極まりない「擬Mr.Boo化」、もとい「擬広川太一郎化」が済んだところで、猫に話を戻しますと、「擬猫化」の代表作品は、やはり漱石の『吾輩は猫である』です。あの吾輩は、体が猫で視線は人。つまり人間の目を持ったまま「擬猫化」しているわけで、だからこそ吾輩と自称したり、猫ながらに鼻が高く思ったり、最後はお念仏を唱えて浄土へと向かうのであります。吾輩の登場から100年以上が経過し、20世紀中にはなし得なかった「擬猫化」の新たなる階段を提示した書籍が登場します。それが『ゆる猫生活』(ほそいあや/玄光社)です。

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 この本では、著者と飼い猫、そして野良猫たちとが、ゆるく楽しく付き合う生活とその実践方法の数々が紹介されています。ゲルマニウムローラーは猫モテグッズだったり、野良猫の集う場所でお茶を飲んだり…。ここで飼い猫のビッキーとテラのかわいさに惑わされてはいけません。写真と文章を丹念に読みこむと、あることに気づくわけです。「猫目線を持った人なのでは」「著者はじつは猫なのではないか」と。オープン猫カフェ写真に猫とともに写る違和感のなさといい、猫と散歩する姿といい、じっと見ているとちょっと大きめの猫に見えてくるわけです。妄想めいたそんな考えを浮かべながら、猫と人とを置き換えて『ゆる猫生活』を読むと、いろいろなことに合点がいきます。

 そうして最後まで読み進め「おわりに」の末尾に記された文章を目にすると…

すべての猫へ。ただそこにいてくれるだけでいいし、明日もいてください。

 猫がかわいく見えるのは、人間側の“色眼鏡”のようなもの。猫のほうはそんなことしったこっちゃありません。でも、共に暮らす相手として共通な思いはあるのではないかと、猫と共に暮らす人々は気づくわけです。「ただそこにいてくれるだけでいいし、明日もいてね」。猫のほうも、人間に対してそう思っているのかも。この本を読み終えると、自然とそんな考えが浮かんできて、「今日の猫ご飯はちょっと豪華にしよう」などと思うことでしょう。

文=猫ジャーナル

写真=同書より抜粋 (c)Aya Hosoi