手抜き感のある天皇の名前とは? 天皇の名前から見える日本史

社会

公開日:2015/10/7

『名前でよむ天皇の歴史』(遠山美都男/朝日新聞出版)
『名前でよむ天皇の歴史』(遠山美都男/朝日新聞出版)

 現代の私たちは、歴史上の天皇を天智天皇、白河天皇、後鳥羽天皇など、「○○天皇」と呼ぶが、生前、天皇たちはそのように呼ばれたことはない。天皇は天下に一人が原則なので、区別して呼ぶ必要がなかったのだ。

 口頭では「御上」「主上」「御門」「禁裏」などと呼ばれており、「天皇はその地位にある限り、個人名がないという不思議な存在」だった。

 現在の私たちが知っている「天皇の名前」は後世の人(又は次代の天皇)が、天皇の死後に献上したもの。ゆえに、天皇に送られた名前を紐解いていくと、その天皇の存在意義や業績を探ることが出来、「名前の送られ方」の変遷を考察してみると、天皇の地位の変質すらも読み解くことが出来る。

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 『名前でよむ天皇の歴史』(遠山美都男/朝日新聞出版)は、そういった観点から、新たな天皇史を解説した一冊である。

 天皇の死後に送られる名前は、2つのパターンがある。「諡号(しごう)」と「追号(ついごう)」だ。

 「諡号」は天皇の在位中に、「天皇として亡くなった」人物へ、次代天皇が前天皇の業績を称揚し、献上する名前だ。

 「追号」は「元」天皇に送られる名前といえる。つまり、位を譲り、亡くなった時には「天皇」という地位には無い場合だ。

 諡号の方は賞賛の意味合いが強い、中国の古典や言い伝えなどを考慮した「凝った」送り名であるのに対し、追号の方は「生前の天皇の住まい」や「なじみの深い土地」などから名づけられる。諡号に比べて、追号は「手抜き感」が否めない、ということを覚えておいてほしい。

 日本史の授業で習った天皇たちの名前は、この「諡号」と「追号」が入り混じっている。おおまかな言い方をすると、古代から~平安時代前期までは「考え抜かれた」諡号が主で、それ以降はほぼ「手を抜いた」追号となる。

 これは天皇が持っていた絶対的権力が、徐々に他へと移行したことを表わしている。平安前期以降、天皇よりも権力を持ったのは「元」天皇の「院」で、それ以降は武士となる。諡号は「亡くなった天皇」にしか送れないので、亡くなる前に譲位して「院」となってしまった天皇には送れないのだ。

 それでは、具体的な天皇の名前を見てみよう。

○神武天皇(諡号)(在位 前660-前585)……神々の結婚によって生まれたとされる、神話の中の初代天皇。「神武」は「神明のような武徳」「人間業(わざ)以上の武威(人知を超えた武力)という意味合いで名づけられた。

○仲哀天皇(諡号)(在位192-200)……身長が約三メートルもあったとされるこの天皇。「仲」は「二番目」という意味があり、この天皇が次男であることを表わしている。「哀」は文字通り「哀しい」というニュアンスを持っており、この天皇が「次男坊で若くして亡くなった」ために、このように名付けられた。なんとも哀しい命名のされ方だ。

○推古天皇(諡号)(在位592-628)……日本初の女性天皇。「推古」とは「いにしえをおしはかる」という意味である。「推古験今」という熟語もあり、つまり、「昔の教訓を今に生かそう」ということだ。推古天皇は政治を歴史に学ぶことが多かったために、このように名付けられた。今風に言えば「歴女」かもしれない。

 以上の3人は、奈良時代に淡海三船が今まで「和風の諡号」しかなかった天皇たちに、一斉に「漢風」の諡号を贈った際の名前だ。日本が唐風(中国風)を目指し、文明を開化されていった時代背景を表わしている。

 次に、追号の例を挙げてみよう。

○醍醐天皇(追号)(在位897-930)……テストで書くのが大変ランキングベスト3の天皇。山陵(お墓)の所在地名が醍醐だったので、死後この名前が送られた。

○白河天皇(追号)(在位1072-1086)……天皇を譲位し、上皇となり権力をふるったこの天皇の名前は、譲位後の御所の名から考えられた。

 追号でよく見られるのは「後○○天皇」という呼び名だ。「後鳥羽天皇」「後白河天皇」などの名前は、(1)ゆかりのある土地が以前の天皇と同じだが、同じ土地の名前を付けられないので区別するために「後」を付けた。(2)以前の天皇(の時代)への憧れ(自分もこうなりたい!)という意味合いから冠されている。

 後白河天皇(在位1155-1158)は上皇として天皇以上の権力を持った白河天皇に憧れ、それを「継ぐ者」という意識からこのような名前を望んだと考えられる。後醍醐天皇(在位1318-1339)も同じで、醍醐天皇の治世を理想としたために、この名前を望んだ(この頃になると、自分で死後の天皇名を考える場合も出て来たようで、自ら『そういう名前にしてくれ』と遺言する「院」が登場する)。

 ちなみに、追号が主流になった時代の中、時々「諡号」の天皇が登場する。

 崇徳天皇、安徳天皇などがそうだが、これは地名ではない。なんでも、無念を残して亡くなった人物には「徳」の字を贈り、霊魂の慰撫を行うことで「怨霊」となることを防ごうとしたそうだ。つまり、追号が主になった時代に「徳」の字が入った天皇は、何かしらの「怨念」を持っていたと考えられていたことになる。

 天皇の名前には「単なる名前」以上に、意味合いが含まれていることを、お分かり頂けただろうか。

 当時の知識人なら誰でも理解できる「諡号」から、京都のローカル地名でしかない「追号」になった背景には、天皇の存在が「日本全国の王」から「京都の王」へと認識が変わったからだと考えられる。

 その後、諡号が復活する幕末は、ご存じのように、江戸幕府の権力が弱まる時代だ。このように、天皇の名前を追うことは、権力の所在を知るための一助ともなることを、本書は教えてくれている。

文=雨野裾