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「ええか君、嵯峨は京都とちがうんやで…」 簡単に京都生まれと言ってはいけない

『京都ぎらい』(井上章一/朝日新聞出版)

『京都ぎらい』(井上章一/朝日新聞出版)

 初対面の相手に「京都出身です」と自己紹介されると、その人物の第一印象が上等に思えてしまう…。このような経験はないだろうか。特に、東京人にとって、京都は、歴史と文化の厚みある偉い土地なのだ。では、当の京都の人間は、自分の住む土地をどう思っているのだろうか。『京都ぎらい』(井上章一/朝日新聞出版)から、京都人の意識を探ってみた。

 著者は、国際日本文化研究センター副所長を務める井上章一氏。出身地は京都市右京区の嵯峨だ。タイトルの『京都ぎらい』から予測される内容は、「自分の出身地である京都が嫌い」である。しかし、読んでみると、話はそう単純ではなかった。なんと、著者の井上氏は、「自分は京都人ではない」というのだ。そして、その理由は「洛外の生まれだから」だと。

 洛外に対する言葉は、洛中。どちらも京都以外の人間には聞き慣れない言葉なので、簡単に説明しておこう。洛中とは、京都の市街地のことで、碁盤の目の中、かつて都として機能していたところだ。対する洛外とは、その周辺のことで、かつては都の外だったところ。著者によると、現在では京都市に含まれている洛外だが、今もって洛中人から格下扱いをされているらしい。

 具体的には、著者が洛中の民家を訪れた時の、次のような会話に表れる。(家主)「君、どこの子や」、(著者)「嵯峨からきました」、(家主)「昔、あのあたりにいるお百姓さんが、うちへよう肥をくみにきてくれたんや」。つまり、嵯峨を田舎だと小馬鹿にしているのだ。「ええか君、嵯峨は京都とちがうんやで…」と立場の違いを念押しする態度と発言に、気持ちがよいはずはない。京都のいやなところだと著者はいう。

 また、80年代のことだが、こんなエピソードもある。結婚相手を探している、洛中生まれの女性の発言だ。「とうとう、山科の男から話があったんや。もう、かんにんしてほしいわ」。山科とは、京都市山科区、洛外だ。結婚相手への条件として、経済的な水準が下がったというのではない。地理的な条件が下がったのだという。いくら30年ほど前の話とはいえ驚きだ。

 お茶で有名な宇治もまた、洛外だ。全国で活躍する宇治出身のプロレスラーが、洛中の会場で試合をした時のこと。マイクパフォーマンスの中で、「出身地に帰ってきた」と言うと、客席から強烈な野次が飛ぶ。「お前なんか京都とちゃうやろ、宇治やないか」「宇治のくせに、京都と言うな」等々。

 このような例に見られるように、洛中人は、洛外人を見下している。京都に天皇がいて、徒歩移動が中心の近世以前なら、この意識はわからないこともない。都会人が田舎者を見下す意識なのだろう。しかし、現代においても、この意識が変わらないのはなぜなのだろうか。

 著者によると、原因のひとつが、東京のメディアからの“京都持ち上げ”にあるという。老舗料亭や寺社仏閣に、取材を“させていただく”東京人。彼らに、京都人として持ち上げられた洛中人は、自らの優位を確認するかのように、身近な洛外人を見下す。著者は、こうした様子を見て、次のような核心をつく言葉を述べている。人間には「自分が優位にたち、劣位の誰かを見下そうとする情熱」がある、と。

 東京周辺でも、千葉・埼玉・茨城に対して「ダサいたま」「チバラキ」といった言葉があるように、地域差別はある。全国的にも、市街地とその周辺の格差意識はあるだろう。もっとも、たいていは、笑いを誘う話題として扱われる程度だが、著者は、「いやなところ」「きらい」といいながら、出身地について1冊の本にまで書き上げてしまうのだからすごい。このエネルギーは、屈折してはいるものの、京都への愛情と言ってもよいのではないか。

 実際、東京に対する京都という関係の上では、著者は断然京都びいきだ。例えば、「上七軒」の読み仮名について、東京の編集者と押し問答をしている。標準語の「かみしちけん」ではなく、京都の発音である「かみひちけん」とするように主張したのだ。標準語は明治以降、東京の言葉をもとに決められた発音だ。

 「自分は京都人ではない」といって、洛中人に反発しながらも、東京に対しては洛中洛外を含めての京都びいき。歴史ある都びとの京都意識は、一言では語り尽くせない複雑なものらしい。

文=奥みんす



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