西加奈子「どの瞬間が欠けても、今の私はいなかったんだなあと思う」と語るエッセイ集『まにまに』

文芸・カルチャー

2015/11/2

作家デビュー10周年記念作『サラバ!』での直木賞受賞が記憶に新しい西加奈子さん。
『まにまに』は、『ダ・ヴィンチ』ほか新聞や雑誌に掲載されたエッセイをまとめた一冊だ。
2009年~2015年まで6年分の文章の中に、鮮やかに変化してゆく西さんの軌跡が見えてくる。
西さんが言いたかったこと、そして振り返って、今思うこととは?

 友人と会う前に、嬉しくて脳内で会話をシミュレーションしてしまうこと。体毛に優劣をつけすぎてしまうこと。友人の出産に立ち会ったこと。洗濯のこと。そして、愛する音楽と大切な本のこと――。本誌『ダ・ヴィンチ』ほか各紙誌に書かれた6年分のエッセイを、自身の手によるイラストとともにまとめたエッセイ集『まにまに』。

「小さい半径のことを書こうと思っていて。なので、イラストも全部自分の家にあるものを描きました。締め切りに遅れたことはなかったと思う。まじめなんです、私(笑)」

 音楽評、書評のページは、「聴いてみたい!」「読んでみたい!」と強く思わせるし、エッセイとしても抜群に楽しめる。
(高熱の時に必ず観たくなるという“FUNKADELIC”というミュージシャンの動画は強烈。もう頭から離れない! 詳しくは、第2章 「もうええ」参照)

「本当におもしろいと思ったものしか選んでいないので、そこに自信はあります! 音楽のページに関しては、自分の生活に寄り添った内容にしようと意識しました。私、CDのライナーノーツが読めないんです。専門的なことが多すぎてわからないから。だから自分で書く時も、そういうことじゃなくて、どういう時に聴いたとか、どんな気分になったとか、身近なことを書こうと。そのほうが読んでくれる人にも、気持ちがダイレクトに伝わるんじゃないかって」

生きてることが勝ちや! と言いたい

 西さん自身が特に気に入ってるエッセイは?と訊くと、即答。「クソの勝ち」だ。スマートフォンを買いに行ったときに感じた疎外感、電話帳の移し方も教えてくれない店員の態度に憤りつつ、悲しい気持ちで店を出る。涙が出る。その瞬間、できたての「犬のクソ」を白い靴で踏んでしまう……! そこで西さんは思う。さっきの悲しさより、こっちのほうがずっと「最低だった。悲しかった。だから、クソの勝ちだ。(中略)この世界は、カスでも命のほうが、勝ちやねんで」。

「『生きてることが勝ちや』ってことが、一番言えてるエッセイだと思っていて。全部の作品で、それを言いたいんですよ。しかも実感したことやから。全力でみんなに言いたいと思ったの。ほんとに号泣したし、情けなくて。でも、感動もしたんですよ。私、クソ踏んで、こんなに悲しくて泣いてる!って。スマホを買う時に感じたもやもやした悲しさより、こっちのほうがずっとシンプルで強い。しかもこれ『ダ・ヴィンチ』の連載での最終回だったんです。いい経験したなあと思いました」

自分は、自分の体以上のものではない

 この「実感」ともつながるが、本書には「からだ」にフォーカスしていく文章が多い。熱を出した時には、こう思う。

自分は体すべてのことを引き受けているのではなく、「からだ」という国の代表に過ぎないのだなと思った。「からだの代表」より

 歌手についてはこう考える。

 歌を歌うのは、その人がいればいいのだ。(中略)自分の体があればそれでいい、そういう世界に、私はずっと手を伸ばし続けている。「体があれば」より

「心のことももちろんすごく書きたいんですけど、感動する時って、私ってこの体しかないんや!みたいなことが多いんです。『我思う故に我あり』の前に『我感じる故に我あり』というか……何か思う前に、体が痛いと感じるほうが先にくる。そのことにすごく感動する。自分が自分の体以上のものではないっていうことに圧倒されている気がします。体のこととか感覚のことを文字にするのってすごく難しいんやけど、やりたい。今、挑戦中っていう感じですね」

「からだ」はあまりにも身近すぎて、そこに“感動”があることに気づきにくい。だから西さんの文章を読んでいて、はっとさせられるのだ。

「自戒を込めてなんですが……『こういうものですから』っていうことを解体して考えたいんです。この本の中でも、三角形の内角が180度なのは『なんでなん?』と思うS君の話を書きましたが、その感覚ってすごく非効率だけど、すごく大切だと思って。『どういうことなんやろ』って、常に考えていたいですね」

 高熱というものは、悪寒を併発するだけでなく、体中を痛ませる。泣きたくなるくらいの寒さと、歯軋りをするほどの痛みに耐えなければならない。地獄だ。

 そんな中、見たくなる映像がある。朦朧とする意識の中起き出して、動画サイトを起動してしまう。皆さんも見て欲しい。FUNKADELICの、『Cosmic Slop Live 1973』という動画だ。

 どうだろう。

 すごく、ムカつかないか。

 高熱にうなされながら、私は、「今、私の体の中で悪さをしている菌というのは、こういう連中なのだろうな」と思う。奴らは、こんな風にふざけ倒し、チョケ倒し、私の体をかき回しているのだ。

 やっぱり、すごく、ムカつかないか。

 そして、ムカつくと同時に、結局どうしようもなく、彼らに惹かれてしまわないか。少なくとも、私はそうだ。(第2章「もうええ」より)

“しなやかな芯”ができた

 初期の頃は“作家”である自分を俯瞰しつつ、その過剰な自意識と戦う姿が繰り返し書かれる。今の西さんは、作家・西加奈子をどんなふうに見ているのだろう。

「今は、“作家”として見られて、全然いいと思っています。6年前は揺れているところがあったけど……揺れなくなった。単純に若かったっていうのもありますよね。32歳のときには、自分より年上の人が私のことを“先生”って言ってくれることに面映ゆさを感じていた。でも38歳になると、もう大人なんやなって。デビューした27歳の頃の気持ちでずっといたけれど、よく考えたら、社会的にもキャリアがあって当然の年代、“先生”って呼ばれると、今でも『おおお』ってなりますけど、『小説、すごくおもしろいです!』って言われると、昔みたいに『いやいやいや……ありがとうございます』って恐縮しまくることもなく、『ありがとう!』って素直に言えるようになりました」

 そう意識して読んでいくと、時を経るにつれて、エッセイの題材自体が徐々に変化していったのがわかる。

「書くのは、“事件”じゃなくてもいい。“何気ないこと”でいい。今は、何もなかったら“何もない”ということを書ける。筆力に自信がついたということなのかもしれませんけど、“読み飛ばされてもええやん”って思えるようになった。いい意味でプライドがなくなったというか。小説でもそうなんですが、私の書くものがあかんかったら、ほかになんぼでもええものがあるし、って。それって逆に“自信”ですよね。自分の作品をすごく好きだなって思えるようになった。自分の中に“信じるもの”を得たっていう感覚があります。プライベートでも作家としても。既存の、例えば宗教とかではなくて、自分次第の“しなやかな芯”ができた。それが何かっていうのは具体的に提示できないんですが」

 それは、まさに“信じるもの”についての小説『サラバ!』を書き上げたことも大きかった。

「『サラバ!』の中でも、信じるものを見つけた、ではなく、『すでに見つけていた、ということだったが』と書いたんですが、『サラバ!』を書くことで何かが変わった、というわけではなくて。いろんな小説に出会って、自分もたくさん書いて、悩んで、徐々にできてきたものが確立した――そういうことだと思います。また揺らぐこともあるかもしれないけれど、今の段階では、何も怖くないっていう感じです」

 西さんは晴れやかに笑う。

『サラバ!』執筆前から執筆後、すべての時期が、このエッセイの中にすっぽりと納まっていて、作家として、一人の人間として、芯を獲得していく過程の、“変わりゆく西加奈子”を見ることができるのだ。

「変化がすごくわかりやすく出ているんじゃないでしょうか。あとがきにも書きましたが、もう今は『音姫』も使わないし(笑)。トイレだけじゃなくて“精神的な”音姫をまったく使わなくなりました。あの頃の自分は、へんな言い方だけど“かわいらしいな”って思います。『わかるで』って言いたい。当時の自分が今の私みたいな人に言われたら『うるさいわ!』って怒ると思うけど(笑)。でも、ここにある、どの瞬間が欠けても、今の私はいなかったんだなあと思います。もちろん書かなかった、こぼれ落ちたこともたくさんあって。それも尊いんですけどね」

 あとがきにはこうした言葉もある。「私は、そのときどきの私として、この体で生きてきたのだ」。

“西さんの”日々を読み、笑い、泣いてきた読者は、ここで急に意識が“自分”へと向かうのを感じるだろう。私たちもまた、そのときどきの“あの”瞬間の積み重ねで、今ここにいるのだ――その思いが、心地よくそれぞれの胸を満たしていくはずだ。

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