朝ドラ『あさが来た』視聴率好調の裏に“広岡浅子を探した”原案者の執念あり

文芸・カルチャー

更新日:2017/11/16

連続テレビ小説『あさが来た』原案本
『小説 土佐堀川 広岡浅子の生涯』
著者古川智映子インタビュー

 時は幕末。17歳で両替商・加島屋に嫁いだ浅子は、文明開化の訪れと共に家運が傾くや、持ち前の商いの才能を発揮。「九転十起」のがんばりで家業を切り盛りし、炭鉱経営、銀行と生命保険会社の創設、さらには日本女子大学の開設に向けて奔走する。激動の時代をさっそうと駆け抜けた、不世出の女性実業家の波乱万丈一代記。

『小説 土佐堀川 広岡浅子の生涯』(古川智映子/潮文庫)

初版から27年の時を経て、日本の〝朝〞を代表するドラマの原案に起用された本作。
激動の時代を豪胆に生き抜き、経済と女性活躍の道を切り拓いた女傑・広岡浅子と、物語の魅力に迫る

現在好評放送中の連続テレビ小説『あさが来た』。幕末、京都の豪商に生まれた少女あさは大阪きっての両替屋の息子・新次郎の元へ嫁ぐが、時は明治維新の真っ只中。時代の煽りを受けて家業が傾くも、あさは持ち前の商才を発揮して、様々な事業を展開。炭鉱経営、銀行と生命保険会社の設立、そして日本最初の女子大学設立に尽力するという、前代未聞の偉業を成し遂げてゆくフィクション・ドラマだ。

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その原案本となったのが、古川智映子さんが1988年に発表した『小説 土佐堀川』。実在した明治の女性実業家・広岡浅子の生涯と彼女を取り巻く人間模様、当時の社会状況を生き生きとした筆致で綴り、女性小説にして歴史小説、そして企業小説としても実に読ませる力作である。

あさのモデルとなった広岡浅子は、実業家として大成しただけでなく、教育家としても偉大な功績を残した人物である―にも拘わらず、古川さんが小説執筆のテーマを探して彼女を〝発見〞するまでは、歴史の中に埋もれていた。

広岡浅子と同時代の女性実業家には『鈴木商店』の鈴木よね、少し遅れて『サムライ商会』(古美術商)の野村みち、『新宿中村屋』を創業した相馬黒光などがいます。私が本書に取りかかる以前から、いずれもすでに有名な方たちでした。広岡浅子という人を発見したのは、女性史研究家・高群逸枝さんの著書『大日本女性人名辞書』を読んだことがきっかけです」

古代から現代まで、あらゆる分野で活躍した女性たちを紹介する、日本における初の女性人名辞典の復刻版を手にとった古川さんは、その中に広岡浅子の名を見つける。

「浅子についての記述は、たったの14行と短いものでしたが、彼女の生きざまを知るには充分でした」

徳川幕府の大政奉還による幕藩体制の崩壊で、浅子の嫁ぎ先である両替商・加島屋が各藩に貸し付けた融資金こと〝大名貸〞は、ほとんどが回収不可能となった。風流人の夫は、商売に関してはまったく頼りにならない。このままでは加島屋の未来は、風前の灯……。

そこで浅子は夫に代わって商いの世界に身を投じる。時代の遺物となった両替商に代わる、明治という新時代にふさわしい商売として、炭鉱経営に目をつける。北九州の炭鉱を買い取り、懐中にピストルを忍ばせて、浅子は炭鉱事業に踏み出す。現場では、経営者である浅子自身が炭鉱夫たちと坑道へ入り、炭塵にまみれて一緒に働いたという。

「特に惹かれた一節は、『ピストルを携行して鉱山へ』。これが、本書を書こうと思った決め手でした。浅子の向こう見ずともいえる勇気、尋常の女にはできない分野へのチャレンジ精神と行動力、他の女性実業家たちと比べても抜きん出ている胆力、なによりもそのドラマチックな生涯。この人はただものではない、ぜひとも彼女の物語を書いてみたい、という衝動に突き動かされました」

手探り状態から出発した、広岡浅子を探す旅

とはいえ、広岡浅子についての情報や文献はほとんどなく、取材は難航を極めた。

「豪商・三井一族の生まれであることは分かっていたので、三井文庫(東京・中野区)を訪ねることから始めました。そこでいろいろな資料を読み、浅子にまつわる人間関係をある程度つかみ、浅子のお孫さんにもお会いすることができたのです。写真で見る晩年の浅子によく似た白髪の上品な方で、浅子が若い女性たちを招いて夏季講習会を開いた御殿場の別荘にも連れていっていただきました。そこで見たこと、ふれたことは教育家としての浅子を想像する手助けとなってくれ、小説のディティール部分においても大いに参考になりました」

浅子が創業に深く関わった大同生命の大阪本社を訪問してから、取材状況は好転する。大同生命社史は有効な資料となり、保存されている加島屋の大福帳や商売道具を見学し、さらに広岡家の末裔も紹介される。加島屋本家では、古い長持ちに入ってあった江戸時代の〝大名貸〞の借用書を見せてもらった。

「それらの中には、五十年年賦という長期での返済を誓うものまでありました。しかし政変で藩が消滅し、すべて反古になってしまったのです。なんと新撰組局長・近藤勇の借用書もあって、それを実際に見て、さわって、ひどく感動したのを覚えています」

浅子にゆかりのある場所の、実地調査にも赴いた。実家があった京都の堀川通りを歩き、浅子と姉の春が、大阪へお嫁入りする際に乗った高瀬舟にも乗船した。春の嫁ぎ先である、維新後に没落した老舗両替屋・天王寺屋については、登記所まで行って調べた。

「事実に基づいた小説は、できるだけ、たしかな資料を集めなければなりません。事実の裏付けがなくとも、感性や想像だけでも書こうと思えば書けるのが小説です。だけど私は、無駄に思えることであっても徹底的に調べます。調べたことを作品に生かせないとしても、根は深く、広くしておきたいのです。そして、調べて歩くこと自体が、まるで旅のように楽しいのです」

浅子について何も分からないところから出発した、手探り状態の旅。それは次第に、古川さん自身を鍛え、楽しみとも喜びともいえる旅へとなっていく。

「この作品に費やした期間は、約5年。本になる当てもないままに書いたので、充分に時間をかけて取り組むことができました。取材中には様々なことがありました。目が見えなくなりかけ、病も患い、私は自分のことを一時期、本当に運が悪い女だと思っていたのです。ですが懸命に浅子を追っているうちに、それらマイナスの因子は消えていき、浅子の強運をもらって、自分もまた運が強いのだ……と思えるようになりました。そして今回、初版から27年も経ったこの本が連続テレビ小説の原案本に選ばれるなんて、まるでご褒美をいただいた気分です。私にもあさが来た気分でいっぱいです」

自分に負けないための座右の銘  「九転十起」に励まされて

ふるかわ・ちえこ●青森県出身。東京女子大学文学部卒業。国立国語研究所で『国語年鑑』の編集に従事。その後、高校教諭を経て執筆活動に入る。代表作に『赤き心を』『風花の城』。 『小説 土佐堀川』には、浅子をはじめ幕末から明治、大正時代にかけての偉人・傑物たちが続々と登場し、それぞれの人間性が表れた名言を発する。

とりわけ主人公である浅子の箴言は、いずれも力強い。古川さんが特に胸打たれた言葉は、「九転十起」だという。

「普通は『七転び八起き』と言いますよね。それを二度ずつ増やした言葉『九転十起』を、浅子は自身の座右の銘としていました。人が七回転んで八回起き上がるのなら、自分は九回転んでも十回起き上がる、と。転んでも転んでも、負けないぞ、という浅子の性格と覚悟が表れている格言だと思います。浅子の人生に対する向き合い方は、私にとっても非常な励みとなりました」

また、関西経済界の大立者、五代友厚の台詞に、こんなものがある。『負けたらあかん、他人やない自分にや』。

「炭鉱事故、銀行創立の挫折と、幾度目かの苦境に浅子が陥っていた時、実業家として大先輩の五代からの励ましとして、そのように言わせました。どんな困難に出遭っても、人のせいにはしない。社会のせいにもしない。すべてをおのが運命と受け止める。成功に至るまでの浅子の苦労は、筆舌に尽くしがたいものでした。『九転十起』の言葉が示すように、おそらく浅子は相当に負けず嫌いな性格だったのだろうなあ……と思われます。でも、彼女にとって最も負けてはならない相手は、商売敵や競合企業ではなく、自分のなかに潜む弱さ、すなわち自分自身だったのだと、私には思えます。そんなふうに自分を見つめる浅子だからこそ、強く惹かれたのです」

五代から受けたこの励ましを、晩年の浅子が自分なりの言葉に言い換えて、若き日の市川房枝に語る場面がある。時代や性差を超えて、共鳴し合った者同士の間に継がれる教えとして。

「小説の終わりには、新時代の女性たちが、ほんの少しだけ出てきます。浅子の死後、彼女たちは近代日本女性の先駆けとして社会に新風を吹き込みます。さらに新しい時代が来る。

そういった予感を、読者の方がたに感じてもらいたかった。浅子の時代と私たちの時代は、けっして違うものではなく、つながっているのだと」

たしかに、広岡浅子という女性は彼女の時代から一世紀以上が経った現在から見てもなお、斬新で鮮烈で、先進的だ。

「浅子の持っていた『先見の明』や『生きる強靭さ』、『九転十起』精神、そして自分に負けない心。こうしたものがないまぜになった浅子の生き方そのものが、今を生きる人たちに、何か、大きな示唆を与えてくれているのではないでしょうか。かつて私が彼女から、多くを得たように」

 

若き日の広岡浅子。写真提供/大同生命『小説 土佐堀川』主人公、明治を生き抜いた女傑経営者 広岡浅子とは何者なのか―!?

幕末から明治、大正期にかけて実業界と教育界で活躍した広岡浅子。嫁ぎ先である両替屋の立て直しを図るべく、炭鉱経営に挑戦したのを皮切りに天才的な商売の才能を発揮。旧時代に代わる新しい時代のビジネスとして、銀行経営、生命保険会社と、時代の先を読む新事業を次々と打ち立てる。当時の実業界の指導者的存在であった渋沢栄一に師事し、渋沢の説く「商売で築いた富を社会に還元してこそ、国全体が豊かになる」という“道徳経済合一説” に深く共感し、教育者・成瀬仁蔵との出会いにより女子教育の必要性を痛感。伊藤博文、大隈重信らの協力を得て、日本で初めての女子大学となる日本女子大学校創設に尽力する。

一堂に会した広岡家。左から4 番めが浅子。写真提供/大同生命

晩年は自らの別荘地で講習会を開催し、後に政治家となる市川房枝や、翻訳家となる村岡花子が参加。明治の女傑は新時代の女性たちを大いに触発した。

取材・文=皆川ちか

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