大企業の不正に立ち向かう中小企業のプライド  池井戸潤“企業物”初挑戦作品『空飛ぶタイヤ』で見せた「人間ドラマ」

文芸・カルチャー

2016/2/5

直木賞を受賞し、テレビドラマも大ヒットした『下町ロケット』(小学館)。いまや企業小説のヒットメーカーとして大人気の池井戸 潤だが、その転換点は『空飛ぶタイヤ』(実業之日本社)にある。『果つる底なき』(講談社)で江戸川乱歩賞を受賞して以来、銀行ミステリーを書き続けてきた著者が初めて企業物に挑戦したのが、この『空飛ぶタイヤ』なのだ。

物語は、赤松運送が所有するトレーラーが事故を起こした、という場面で始まる。走行中、タイヤがはずれて歩道にいた母子を直撃、母親が亡くなってしまったのだ。整備不良が原因とされたが、運送会社社長の赤松は納得できなかった。整備には万全を期していた自信があったからだ。赤松はトレーラー自体の構造的欠陥を疑うが、メーカーのホープ自動車はそんなクレームを歯牙にもかけない。ところがホープ自動車のトレーラーは似たような事故を他にも起こしていた……。

『下町ロケット』にも見られた「真摯に仕事に向き合う中小企業のプライド」が本書の核だ。人を死なせた事故の元凶とされ、警察にも疑われ、取引先も失い、銀行からの融資も断られて孤立無援の運送会社の社長が、大手企業を相手に戦う。一方、ホープ自動車の社内にもこの事故に疑いを抱く者がいて、内部告発という手段に出る。ところが赤松の奮闘も、内部告発者の正義も、大企業の力の前には蟷螂の斧だ。

善玉と悪玉がはっきりと分けられ、「正義は勝つ」というゴールを目指して物語は進む。シンプルな構造だが、駆け引きあり、意外な展開あり、銀行や週刊誌も関わってきて、企業サスペンスとして実に読み応えがある。だが本書は企業小説ではあるものの、それ以前に、人を描いた小説であることを忘れてはならない。何の罪もないのに大企業の保身のために命を落とした被害者。家族と社員と、そして自らの誇りを守るために大企業に立ち向かう赤松。善玉と悪玉がはっきりしている中、唯一、保身と正義の間で「揺れ」を見せるホープ自動車社員の沢田。ひとつの事故を巡って展開される組織の中の人間模様が一番の読みどころだ。

この物語は実際に起きた事件を下敷きにしていることは論を俟たない。だが、旧来の企業小説なら、大企業の体質の暗部にメスを入れるという形になったであろうこのテーマを、池井戸 潤は敢えてハラハラドキドキの人間ドラマとして描き、カタルシスを用意し、企業サスペンスというエンターテインメント小説の形で多くの読者の支持を得た。大企業の不正が生んだ悲劇は風化させてはならない。それを池井戸 潤は、このような方法で、読者の心に刻みつけたのである。

文=大矢博子

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