その「思いやり」、立派な攻撃です。日本はなぜ公共の場での注意が多いのか

社会

公開日:2016/3/15


『「思いやり」という暴力』(中島義道/PHP研究所)

 中央線の通勤快速(国分寺から新宿まで止まらない)に乗ろうとした時、こんなアナウンスを耳にした。「この電車はこの先約30分間ドアが開きません。体調の優れないお客様は無理をせず快速列車(ほぼ各駅に止まる)をご利用ください」。なんと指示の細かいアナウンスだと驚いたが、こうした公共の場での注意が多いのは、日本の特徴のようだ。『「思いやり」という暴力』(中島義道/PHP研究所)にも、次のエピソードが載っている。

 ある新聞の投書欄を引いて紹介しているものだが、東海道線内のあるアナウンスについてだ。「この電車は国府津行きです。それより先に行かれる方は九時七分の熱海行きに乗り換えていただきますが、終点国府津駅では階段利用の乗り換えになります。次の二宮駅では同じホームでできますので、二宮駅でのご利用が便利です」。投稿者は、思いやりあるアナウンスに感激したという意図で文章を寄せているのだが、本書の著者中島氏は、これを快い気持ちで紹介しているのではない。こうした「思いやり」は暴力だというのである。いったいどういうことなのだろうか?

 著者の言葉を直接引用しよう。

advertisement

自分が感謝している放送でも他人には苦痛を与えているかもしれない。

 要するに、投稿者にとっては「思いやり」でも、他人にとっては攻撃になっている可能性がある、それを思うことのできる思考力を持っていて欲しい、ということだ。アナウンスによって寝ていた人は起こされたかもしれないし、ホームの状況を既に知っていて必要のない人もいるかもしれない。また、乗り換えない多くの乗客にとっては、騒音という公害になるかもしれないのだ。

 さらに、日本は「思いやり」を自分だけでなく他人にも強要する傾向がある。この「思いやり」あるアナウンスでも、新聞に投稿した人には、「私は感激した、だからあなたも感激するでしょう」という意識が潜んでいるように思う。また、「私には必要ない情報だから放送を止めてほしい」とJRに求めたとしても、聞き入れては貰えないだろう。なぜなら、困っている人を助ける行為に文句をつけるとは、あなたは思いやりがない人だと見做されるからだ。このように、「思いやり」がないと裁かれた人物は、日本では周囲からの手厳しい批判を受けることになる。著者はこれを、「優しさ教」の宗教裁判と呼び、本当のことを言えない社会をつくる原因のひとつに挙げている。

 再び著者の言葉を引用しよう。

この国では「他人を傷つけず自分も傷つかない」ことこそ、あらゆる行為を支配する公理である。したがって、われわれ日本人は他人から注意されると、その注意の内容がたとえ正しいとしても、注意されたことそのことをはげしく嫌う。(中略)注意することは大勇気を要し、注意されることは大侮辱である。だから、みんな黙っているのだ。

 冒頭に挙げた中央線の例は、駅職員が電車の非常停止ボタンを押されたくなかったのだろう。それならば、公衆の面前で非常ボタンを押してしまった本人に、以後は体調と相談して乗るように申し伝えればよい。言われた方は踏んだり蹴ったりで辛いであろうが、二度と同じことはしないだろう。周囲で見ていた者も同じ目に遭ってはたまらないと気をつけるだろう。不特定多数への注意より、個人的な注意は効くのだ。また、東海道線の例では、楽な乗り換え方法がわからなければ、自発的にJRの職員に聞けばすむ。しかし、日本ではこれがなかなか難しいのである。自他双方の傷を恐れて個人的な批判や注意がしにくいため、公共の場で不特定多数に向けて注意を呼びかける。日本に注意喚起の看板やアナウンスが多いのはそのためだ。「池に飛び込んではいけません」「ここにゴミを捨ててはいけません」「荷物はさまりにお気をつけください」等々。不要な人には騒音だったとしても、「思いやり」のアナウンスであるのだから文句は言えない。

「思いやり」に潜む暴力性に気づくと、街中の標語や放送がうるさく感じられる。ひとりひとりが自分で考え判断していけば、そんなものいらないのではないか? しかし、注意をされないということは、すべて自己責任ということでもある。池から落ちても自己責任、電車に乗り間違えても自己責任だ。はたしてどちらの社会が心地よいのか、その人の自立度、個人主義具合にかかっているような気がする。

文=奥みんす