伝説の“大泉サロン”秘話から、名作『風と木の詩(うた)』『地球(テラ)へ…』を生み出すまで 竹宮惠子さんインタビュー【後編】

マンガ

更新日:2016/3/28

「当時を思い出して昔のマンガを読んだという感想もあって嬉しかった
 書いてよかった、と思っています」

 「20年以内にこの業界を変える。少女マンガの革命を成功させる」――1970年代初頭、そんな情熱を持ったマンガ家が集まった「大泉サロン」。そこでの濃密な2年間と終焉、壮絶なスランプを乗り越えて『ファラオの墓』『風と木の詩』『地球(テラ)へ…』を生み出すまで、そしてこれまで語られなかったこと…そんな青春の日々の様々な思いが詰まった『少年の名はジルベール』を上梓されたマンガ家の竹宮惠子さん。本書は少女マンガファン、そしてマンガ家を目指している人はもちろんのこと、生きづらさを抱え、日々悩む人の心にも優しく寄り添う言葉が溢れる一冊となっている。

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相手を気にする時間の方が長かった

 一番身近な存在であった萩尾望都さんへの嫉妬に苦しんだ竹宮さん。約3年続いたというスランプの時期に描いた作品を褒められることについて「あまりにもコンプレックスというのが作品に叩きつけられちゃうみたいな状況になっていたので、不完全な感じが恥ずかしくって」と説明する。

「それがもっとも現れていたのが、弟の才能にコンプレックスを持つお兄さんが主人公の『ロンド・カプリチオーソ―氷の旋律―』(73~74年『週刊少女コミック』に連載)でしょうね。フィギュアスケートを描いた物語なんですが、それが一番そういう感じだったかなと思います」

 どうしようもなくなった竹宮さんは、萩尾さんに「距離を置きたい」という趣旨の言葉を告げる。

「私は初めてそういうことをストレートに言うわけですから、結構気を使って、最初に言った日だけじゃなく、何日か経って萩尾さんのところに訪ねて行って、もうちょっと長い時間をかけて話をしたりってことをしたんです。本当に申し訳ないけど離れなければならない、全然別にあなたが悪いわけじゃないんだけど、と。自分が自分を守るためにせざるを得ないことなんだ、というふうに説明したと思います。もうホント、相手のことを気にしてる時間の方が長くて、自分のことを考えてる時間が少ない事態になっていたので」

 その苦悩と別れ、実り多く幸せだった大泉サロンでの生活、そして72年に萩尾さん、増山法恵さん、山岸凉子さんの4人で45日間かけてヨーロッパ各国を訪れ、大きな影響を受けた旅の思い出、編集者との戦いなどについてはぜひ『少年の名はジルベール』をお読みいただきたい。メゾネットだったという大泉サロン内部を描いたイラストも掲載されている。

大泉サロン一階
(『少年の名はジルベール』P69より)

主観的な考え方から客観的な視点へ

 こうした出来事を経たことで、主観的な考えしか出来なかった竹宮さんは客観的な視点を持つことが出来たという。そしてプロデューサーとして作品を一緒に作り上げた増山さんの存在も大きかったそうだ。

「ちゃんと客観性を持って描くとまた違う効果があるんじゃないかな、っていう希望みたいなものを持ちましたね。それを『ファラオの墓』でやってみよう、と。増山さんは最初に会った頃からマンガ批評をする人でした。すごいとんでもない言葉でいろいろ言うので、みんなビックリするんですけど(笑)。彼女は『映画に負けたくない。映画に負けないマンガを作らないといけない』って年中言ってまして。映画っていうのは世界中の人へ渡すわけですから、客観性っていうのはすごく練られてて、芸術的なところまで高められてる。それに負けるな、って言うわけですよ。だから描く方は大変なんですけど、そういう視点を持たなきゃダメだ、ってよく言われてましたね」

 増山さんと意見を交わし、物語の構造を理解し、状況と戦い、ひとつひとつ物事を積み上げてスランプを脱していく竹宮さんの奮闘は、マンガ家を志す人だけではなく、全ての“働く人”必読のパートだ。

「戦ってる自覚みたいなのがあるのは、私みたいな状況に逆らうようなものを描いている人間だから思うのであって、受け入れられるものを描いている人についてはそんなことないんじゃないかなと思うんですけど(笑)。でも、上原きみ子先生(『少女コミック』などで活躍。代表作は「まりちゃん」シリーズなど)だって、後で読んでみるとその時代の他の少女マンガと比べたら強くて、激しい熱さを持ってる主人公を描いてるんです。でもボーイフレンドに助けられて幸せになっていく、という当時の少女マンガの押さえるべきところは押さえてるので全然戦っているようには見えない。上原先生でもそういうことやってるんだから、私も『ファラオの墓』のときはちゃんと押さえるべきところを押さえないと、ってことはありましたね」

 人気となった『ファラオの墓』の連載が終わった76年、ついに少年同士の愛を描いた『風と木の詩』の連載がスタートする。

役立つのか、無駄なのかを自分に問うことの大切さ

「私が悶々としていた時期に考えていたのは、この感情は役に立つことなの? それとも無駄なイライラなの?ということでした」と言う竹宮さん。

「役に立つショックであるとか、自分がダメだって思う気持ちとか、後悔とか、あのとき失敗しちゃったなというのは残しておかないといけないし、いつかそれは必ず解決しなきゃいけないことです。でも無駄なイライラの方が多いんですよね。何かあったとき、それにとらわれてる自分がいるんですよ。いつまでもそこにとどまってる。それが『もう無駄!』と思ったんですね。それから『無駄』っていう言葉を自分の中で使うようになった。『それって無駄でしょ?』って。でも最初はなかなか出来ないんで、戻っちゃうんですよね。でもスポーツと一緒で、キツいところを通り抜けると楽に出来るようになる。振り払ってニュートラルな状態に戻ることは、やっぱり心を鍛えることでしか出来ないんです。それが3回に1回は出来るようになって、だんだん増えてくる。そうすると何があっても戻ってこれるようになって、何事が起きても怖くなくなるんです」

 少女マンガ史の大きな足跡である「大泉サロン」時代を含むエピソードは、その時代を生きた人には懐かしく、後追いした人には資料的な価値のある内容となっており、本書を読んだ人からは驚きの声が上がっている。

「いろんな方、マンガ家さんなんかも読んでくれて、『そのコンプレックスは見えませんでした、全然知らなかった』って言われたので、『そうでしょうねぇ、誰も知らないよねぇ』って話はしたんですけど。でもあまりに広がっちゃったのでびっくりして、なんとなく気持ちが落ち着かない毎日を過ごしていまして(笑)。なんかとんでもないことしちゃったんじゃないかな、って感じがちょっとして…でも、もう送り出したからには、そこにはまったく自分の感情が入る余地はありませんからね。この本を読んで当時を思い出して、昔のマンガを引っ張り出して読んだという感想もあって嬉しかったですし、書いてよかった、と思っています」

“時代を作るマンガ”が生まれる可能性はある

「20年以内にこの業界を変える」という目標を掲げた大泉サロンの面々だったが、70~80年代にかけて少女マンガの人気は拡大、竹宮さんのSF作品『地球(テラ)へ…』も80年にアニメ化され、女性だけではなく男性ファンも増えて、社会的な影響力も増していった。そうした大泉サロンが持っていたような熱気やムーブメントは今もあるはず、と竹宮さんは言う。

「でもやっぱりひとりでは無理で、何人か固まる人がいないとムーブメントっていうのは起きない。何かを起こしたいなら、いろいろ要素を集めないと出来ないんです。今は音楽の世界がそうですよね。作曲も、作品を発表することも、パソコン一個で出来てしまう。そういう人たちがたくさんいます。マンガもきっとそのうち、そういう事態が起きるんじゃないかなと思ってるんですよ」

 絵が描けない人がソフトを使ったり、フリーの素材を取り込んで絵を動かすことでマンガを作る時代が来る――京都精華大学で後進の指導にあたっている竹宮さんは、新たに創設される「新世代マンガコース」というコースでそうしたことを視野に入れていきたいと話す。

「ムーブメントを起こそうと思えば、可能性はいっぱいあると思います。昔のマンガのように出来ないからとか、今のマンガはちょっとつまらないねとか、それは媒体自体の問題なのかもしれないですよね。違う形で新たなヒットが生まれるということも絶対あるはずで、誰がそれを探し出すのかというだけのことだと思うんです。誰かが描き方や発表の仕方を考え出して、それにわーっと乗っかる人がいたら、それはもうひとつの時代を作っちゃうんだと思います」

 竹宮さんが驚いた萩尾さんの生み出した手法や技法が、すぐに同時代のマンガ家たちに取り入れられていったエピソードは『少年の名はジルベール』に登場する。しかしマンガはオープンソースであり、テクニックなどを他の人が取り入れてバージョンアップすることでマンガ界全体が進化してきたということは『竹と樹のマンガ文化論』(竹宮惠子、内田樹 共著/小学館)でも話されている通りだ。

「誰も、他の人が発明したものを真似しちゃダメ、とは言わないってことなんです。マンガっていうのはそこがすごいんだ、って私は思ってるんです」

取材・文=成田全(ナリタタモツ)

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