ヤキに体罰にシゴキ……!? 想像を絶する大学生生活にして、青春小説。

文芸・カルチャー

2016/3/28


『国士舘物語』(栗山圭介/講談社)

つい先日、「体罰による学生の自殺」がニュースで取り上げられた。試合中に顧問が生徒の顔を何度も殴るショッキングな映像が流れ、「どうして誰も止めないのだろう?」と思ったものだ。

このニュースは行き過ぎた例であり、相手を自殺にまで追い込むような「指導」は絶対に許されるものではない。だが、一昔前まで、教育現場では確かにシゴキや体罰といった「暴力」は存在した。完全文科系の私には、全く理解できない世界だったが、この小説を読み、その渦中にいる人々の心情を感じることができた。

国士舘物語』(栗山圭介/講談社)は、80年代に国士舘大学体育学部体育科に入学した主人公、江口孝介(えぐちこうすけ)の、青春と暴力が混在した「特殊な」学生生活を描いた「暑苦し切ない」体育会系青春小説である。

シティーボーイとなることを夢見て上京した孝介。陸上選手として「そこそこ」の成績しか持っていなかった彼が体育学部に入学したのは「四年間遊びたかったから」と言うのが本音。しかし実際の学生生活は想像以上の過激ぶりだった。

ひな壇に掲げられた日の丸と国士舘旗に向かって万歳三唱をした入学式。クラス内での乱闘騒ぎ。部活内での厳しい上下関係は、1年奴隷、2年平民、3年天皇、4年神様と言われ、1年生の間はひたすらしごかれ、顔に青あざを作った同級生がごろごろ。先輩の言うことに絶対服従なのだ。

部活動に参加することが必須である国士舘大学で、孝介は比較的厳しくない陸上部に入り、幽霊部員を貫いたが、クラス内での暴力沙汰や、学年ごとに行われる過酷な実習訓練を体験する。1年次は臨海実習で、「灼熱の房総半島岩井海岸をひたすら泳ぐ」。海中で足が攣ってもボート班はすぐに助けてはくれない。足が痙攣した場合、仰向けになり応急処置をするという「冷静な判断力」を培うためなのだとか。

クラスメイトをはじめ、体育学部に集まった学生は高校時代にヤンチャをしていた者が多い。すぐに拳でのケンカになり、流血沙汰も後を絶えないのだ。

そんな学生生活を送る孝介。彼も地元では一角の「不良」だったが、大学に入ってからはレベルの違いを思い知らされ、キャラを変更してお笑い系になる。

と、ここまで「暴力」の方を書き連ねてしまったが、本書は決してひどいシゴキや体罰を書き続けているわけではない。「青春」の要素も、ふんだんに詰まっている。

特殊な学生生活ではあるが、仲間とつるんで合コンをし、女の子を好きになる。いい雰囲気だと思っていたのに、「私、彼氏いるから」とフラれたり、その後に「やっぱり好きになった」なんて言われてドギマギしたりする(最終的に恋は結ばれない。それも青春らしい)。

また、学内で恐れられている柔道部の人間に、目を付けられてしまった時には、クラスメイトが助けに来てくれる。学部内競技会で優勝して、仲間たちで大声を上げ、喜びを分かち合ったこともある。

異世界にも感じる、壮絶な「暴力」の描写の中に、きらきらした「青春」の物語が詰まっている。そんな小説なのだ。

そして、主人公たちが「暴力」の中で見つけたものは何なのか? それを決して「暴力の応酬」ではない。

拳を仕舞い奥歯を噛んで心を抑えた。拳に代わるものはいまだ見つけられないけれど、人を思いやる気持ちがその役割を果たすことをにわかに感じはじめている。それが拳を振り回すことよりも困難であり勇気が必要なことは百も承知だ。

カッとなり、すぐに暴力に走っていた孝介は国士舘大学の四年間でそう思うようになる。

この小説は、単純に体罰の良し悪しを訴えたいわけではないと思う。「暴力」と共に青春を送った彼らは、一概に「暴力」を否定できない。孝介はその青春があったからこそ、「拳を仕舞い込む勇気」を学ぶことができたのだ。

人を思いやる気持ちを知らない拳だけが、誤った体罰になるのだろう。

80年代に学生だった方は、なつかしさを持って読めるはず。また、私と同じように文科系の人には、全く異なる世界を見せてくれる。現在の教育現場に不満不平のある方も、将来に悩める若者も、様々な人に通ずる「暴力と青春」がこの小説にはある。

文=雨野裾