昭和初期、村落に住む日本人はどのように生きたか?

社会

更新日:2016/3/29


『忘れられた日本人』(宮本常一/岩波文庫)

 例えば、子供が迷子になった時、私達はどうするでしょう? 自分で探す場合もありますが、デパートや町中など捜索範囲が広い場合は、デパート内の場合は職員に、町中の場合は警察に、とにかく探してくれる役割の人に頼るのではないでしょうか。この役割とは、職業と言い換えても良いです。

 昭和初期頃のある村落の話ですが、この村落の場合、こういった役割(職業)は警防団が担っています。けれど迷子が出た時は、警防団だけでなく一般の村人達も自主的に迷子の捜索に乗り出します。ここで注目したいのが、そういった自主的に捜索に乗り出す村人達は誰かの指示のもと、統率されて動くのではないという事です。そして、各々で動いているにもかかわらず、ある者は子供の友達の家へ、またある者は隣村へと方々へと実に効率的に捜索が為されているのです。これは、村人達が子供の行動範囲を熟知しているからだと『忘れられた日本人』(宮本常一/岩波文庫)では言われています。

 本書は、全国を巡った著者が現地の古老などに聞いた話がまとめられており、前述の迷子捜索の話もその1つです。時代はこの話と同じく昭和初期頃のものが中心で、現地の人から直接聞いた話だけに、どれも具体的で、生々しいものです。ちなみに、この話の迷子は、親に叱られたために身を隠しただけで、のちに村の中から発見されたそうです。

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 また、村落では家出が行われる事も多々ありました。家出をするのは、主に若い娘達です。家を出てどこに行くのかというと、友人などのツテを辿って遠くの地に行ったそうです。また、若い女性が四国などを巡る旅に出る事も多くありました。本書には、家出をして奉公に出た娘の話や、お遍路の旅で四国を巡った女性の話があります。旅の目的は、世間を知る事と、旅先で得た知識を村に持ち帰る事。この旅をしていない娘は「世間を知らない」と嫁の貰い手がないとまで言われたそうです。各地を巡る旅の最中には、同じように旅をしている他の女性と行き合って道中を共にしたり、時には旅先の土地で、(貧困などの理由で)親が育てられない子供をもらい子として旅に同行させたり、時には旅先で出会った人と結婚した事もあったとか。旅は道連れ世は情けという諺は、こういった例にも基づいているのかもしれませんね。

 また、当然ながら旅をするのは娘だけではなく、男の旅路も多くありました。そういった旅を好む男達は世間師と呼ばれ、昭和の初期頃までは大勢居たそうです。その人達が年老いた頃……つまり、昭和の中期を過ぎる頃になると、口では個々の自立が大事だと言いつつ、日常生活でそれを実行しないような若者が増えるようになります。対して、かつての世間師達は行動面を強く重視する老人になりました。そんな老人達にとって、言葉と行動が一致していない若者達は大きな説教の種に見えた事でしょう。実際に「言行不一致だ」と説教をした人も居たかもしれません。本書には、そんな老人達を、若者達は頑固の一言で片づけているという一文があります。しかし、この一文に、老人達の頑固さがかつて世間師として各地を巡った経験に裏打ちされた彼等の価値観だという事を付け加えるならば、その言動に対する捉え方には再考の余地もあるような気がしますね。

 これまで紹介しましたのは、主に村の外に出ていくお話ですが、当然村落内のエピソードもあります。例えば……早乙女という言葉をご存じでしょうか。これは、村の田んぼに苗を植える女性の事です。男性は、苗を苗代から運ぶ運搬係でした。この運搬係と早乙女では、早乙女の方が立場的に強く、運搬が途切れたりすると男をやじったり、時には女三人がかりで男を田に引きずり込む事もあったとか。苗を植えるのは競争であり、それに負ける事は女の意地が許さなかった、勿論敗因を作るような男も許せなかった――という事でしょうか。

 近代と呼ばれる時代になって尚、共同体の中における情報共有や、娘のお遍路、世間師の存在など、村落では江戸以前の姿がありありと残っている事がわかります。歴史書だけでは決して見る事のできない昔の日本人の暮らしを、現代を生きる私達の感覚で覗いてみると、よりおもしろいかもしれませんね。

文=柚兎