豊臣秀吉政権に降りた”影” 安土桃山時代の不穏な「京都の歴史」をひもとく

文芸・カルチャー

2016/4/26


『落日の豊臣政権 秀吉の憂鬱、不穏な京都』(河内将芳/吉川弘文館)

春といえば桜。観光シーズンの到来だ。全国が観光客で色めき立つ。京都もその1つだ。この記事を読んでくださっている方の中には「せっかく歴史ある京都に行くので、何か前もって京都の歴史やうんちく知りたい」と思っている方もいるはずだ。そんな方に紹介したいのが『落日の豊臣政権 秀吉の憂鬱、不穏な京都』(河内将芳/吉川弘文館)だ。本書を読めば、一味違う京都の歴史を知ることができる。

タイトル通り、本書では、天下統一を成し遂げた豊臣秀吉の憂鬱と不穏な京都の町の歴史がひもとかれている。秀吉の生きた安土桃山時代といえば、「弥勒(みろく)の世」と呼ばれ、「路頭に乞食、非人、一人もこれなし」(※)と言われるほど、人々が豊かなイメージがある。現代のバブル期のようだ。ところが、本書を読み進めるとそうでもなく、むしろ秀吉に対する不信感が京都の町全体を覆っていたようだ。そこで、その内容をいくつか紹介したい。ただ、かなり専門的なので、私が要約したものを載せたい。

・夜が明けると、京都の町には死体がごろごろ

石川五右衛門といえば、歴史上の有名な盗賊である。かの五右衛門は盗賊団を組み、全国で盗みを働いていた。文禄三年(1594年)、五右衛門がついに京都へやって来たという。本書によれば、その一団が京の町人の財布を盗み回ったとか。しかも、ただ盗むだけではない。財布を盗むために、その持ち主たちを殺して回ったのだ。そのため夜が明けると、京の町には死体がごろごろしていたとか。これに激怒した秀吉は、盗賊一団をひっ捕らえ、五右衛門を含む15人の頭目は生きたまま油の入った釜で煮られた。さらに、彼らの妻子、父母、身内の五等親まで磔に処されたという。しかし、町に死体が転がっていたのは五右衛門のせいだけではない。秀吉政権内部のごたごたで不満を持つものが出てきて、連日のように辻斬りや喧嘩が起き、実は京都の治安は良くなかったようだ。

・三条河原といえば処刑の地

現代の京都の三条河原といえば、京都最大の繁華街といっても過言ではない。若者が集って酒を飲み、大人は鴨川を見下ろしながら料亭の懐石料理で1杯やる。あちこちで桜が咲き乱れ、三条大橋から四条大橋まで河原にカップルが並んで座っており、華やかなことこの上ない。しかし、400年以上昔のこの地では、凄惨な処刑が繰り返されていた。秀吉の時代の処刑といえば、三条河原なのだ。上記の石川五右衛門をはじめ、関白である豊臣秀次も妻子と共に処刑されている。秀次一家に至っては、裏切り者と彫られた墓が三条河原に建てられ、そこに遺体が放り込まれたという。その他にも、秀吉に逆らった者、秀吉に嫌われた者、悪事を働いた者たちがこの三条河原で凄惨な処刑を受けている。大学のサークルのコンパの締めに、三条河原で騒ぐ大学生たちは、そんな歴史はつゆほども知らないだろう。

・京都で起きた文禄の大地震

文禄五年(1596年)、京都で文禄の大地震が起きた。マグニチュードは8に近いというので、想像を絶する災害である。多くの建物が倒壊し、2000人近い死者を出した。当然、秀吉が治める伏見城も倒壊。何とか生き残った秀吉は、復興の象徴として伏見城を建て直すことを 決めたという。しかし、そのために集められた人々は悲惨な目に遭った。過酷な労働を課され、食料は一切支給されず、非常に危険な作業を伴うために怪我人が続出。働けなくなった者たちが乞食と化して、京の町をさまよったそうだ。「弥勒の世」の終わりを告げる出来事だったとか。実際、その3年後には秀吉も死去している。

本書を読めば、秀吉や華やかな京都のイメージもかなり変わるだろう。上記の内容はあくまで私が要約したものだ。本書ではもっと詳細に語られている。少々専門的なところもあるので、歴史マニアの方にはぜひおすすめしたい。

光が存在すれば、必ず影も存在する。京の町人たちが豊かになったとされる秀吉の時代だが、そこにはあまり語られてこなかった歴史があった。この春に京都を訪れるという方は、本書で京都の予習をしてみてはどうだろうか。

文=いのうえゆきひろ

※歴史的表記にもとづいています