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2016/6/6


とある広場で“あの人”


今月の“あの人”は…ラン』

小枝ちゃん(木処優菜)

ラン』 森 絵都/講談社

13歳のときに家族を、20歳のときに同居の叔母を亡くした環。唯一の話し相手だった自転車屋の紺野さんは、実家に戻る際、夭逝した息子の自転車〈モナミ一号〉を環に託していく。寂しさを忘れたくて〈モナミ一号〉で疾走することの多かった環だが、あるとき死後の世界に迷い込んだことに気づく。そこで家族や叔母とも再会。定期的にこの世界を訪れるようになる。そんな彼女に対して、叔母は〈モナミ一号〉を紺野さんの息子に返却するように迫る。自らの足でこの世界にこれるようにしたい─その一心で、走り始めた環だったが……。小枝ちゃんは、環が所属することになったイージーランナーズのリーダー・ドコロさんの姪っ子。ハタくんはイージーランナーズのメンバー。

『ラン』番外編

スワン【第一話】森 絵都


 就職祝いに何がほしいか聞かれたとき、私の頭に浮かんだのは自転車だった。まどろっこしい答え方をしたのは、いくらハタくんがお金持ちのボンボンだからって、贈りものとしてそれはけっして安いものではなかったから。

「なにか、乗りものがほしいかも」

「乗りもの?」

「その、かわいいサイズで、気軽に漕げるような」

 漕げるといったら、自転車。心の声を相手に汲んでもらおうとするのは、私の悪い癖だ。でも、ハタくんは心得たとばかりにニッコリうなずいてくれたから、てっきり伝わったものと思っていた。

 ハタくんは小学生のころ、おじいさんから誕生日プレゼントに潜水艦を贈られたことがある、という驚愕の事実を知ったのは、それから二ヶ月後のことだ。

「潜水艦っていっても、おもちゃみたいな道楽用のやつだよ。おじいちゃまの別荘の庭に沼があってね。そこに潜って遊びたかったんだ」

 就職祝いが完成したから渡したい。ある日突然、そう告げられて車に乗せられ、どことも知らない遠くへ連れられていくあいだ、ハタくんが潜水艦の思い出を語るほどに私は不安になった。なぜ、今、そんな話をするのか。この車はどこへ行くのか。就職祝いが、完成?

「着いた。おじいちゃまの別荘だよ」

 都心から約三時間、樹木の緑が滴る山間にそびえる屋敷の前で車が停まったとき、私は悪い予感がした。ものすごく。

「ここから先は車じゃ行けないから」

 ハタくんが私の手を引いて向かった先は、屋敷ではなく、庭だった。自然公園並みに広大な敷地を突っ切り、奧の藪へと分け入っていく。進むほどに密集していく草を掻きわけ、立木の枝をくぐり、苔むした斜面をくだる。髪の生えぎわが汗ばんできたころ、ようやく視界が開けた。

「あれだよ」

 ハタくんが指さした先には翡翠色に濁った沼があった。その水面に光るものを見て、私は思わず目をこすった。

「小枝ちゃん。就職、本当におめでとう」

 そこには、一羽の巨大な白鳥─を模した「乗りもの」が浮かんでいた。

 そう、スワンボートだ。

 

 長いまつげのつぶらな瞳。優雅なS字の曲線を描く首。胸元に赤く刻まれた『小枝号』の文字。ペンキの白も、操縦席も、何もかもが真新しい。間近で見れば見るほどに、それは美しいスワンボートだった。

「大学も行かずに引きこもってた小枝ちゃんが、時間がかかっても卒業して、就職までしたんだ。そんじょそこいらのお祝いじゃ、俺の祝福心が満たされないからね」

 放心の体にあった私に、ハタくんがさも会心の贈りものをしたとばかりに目尻を垂らして言う。いずれ跡を継ぐお父さんの会社で修業中の彼は、けっして日常的に贅沢をする人ではないけれど、やっぱり基本、経済感覚がぶっとんでいる。

「小型だし、ペダル式だから手漕ぎボートよりも気楽に漕げるよ。さ、乗ってみなよ」

 驚きさめやらぬまま、私は彼にうながされ、スワンボートの操縦席へ乗りこんだ。ハタくんもそれに続くのかと思いきや、いつまでもニコニコと岸にたたずんだまま動かない。

「ハタくんは?」

「俺は接岸するときのために残らなきゃ」

「え。じゃあ、私ひとりで乗るの?」

「危険はないから、大丈夫。ボートには浮き輪も積んでるし、水もそんなに深くない。俺がずっと見守ってるしね」

 そう言われても……。新たな波に心をさざめかせ、私はあらためて目の前に広がる沼を一望した。面積としては少年野球ができる程度? 岸辺にはぐるりとシダ系の植物が生い茂り、その上から濃緑の樹木が垂れこめているから、正確な輪郭はわからない。テレビで観る秘境アマゾンの一景に似ているかも。この野趣みなぎる沼に、私ひとりで漕ぎだす?

 ぶるりと震えが走った。でも、ここで私がひるんだら、この手のこんだサプライズがだいなしになってしまう。晴れて社会人の仲間入りをした以上は、スワンボートくらいひとりで漕げなきゃってところもある。

「うん。じゃあ、ちょっと探検してくるね」

 勇気をふりしぼってペダルに足をかけた私を、「小枝ちゃん」とハタくんが呼びとめた。

 深刻な声。瞳の色もさっきまでとちがう。

「すぐにとは言わないけど、俺、ゆくゆくは君と一緒になりたい。いつか俺たちの子どもをこの小枝号に乗せたい。そんな未来を夢見ながらこれをオーダーしたんだ」

……もしかして、これってプロポーズ? 

 突然のことにまごつく私を乗せて、スワンが岸を離れていく。返事をできないどころか、彼の顔さえまともに見られなかった。

 ハタくんと結婚。交際三年目ともなれば、別段、不自然な話ではない。むしろ自然な流れなのかもしれない。なのに、心が躍らない。それどころか、なんでだろう、重たい鉛のような憂鬱が心をひたしていく。

なんで? こんな沼の上だから?冴えない沼と向きあい、初夏の陽を照り返す水のまぶしさに目を細めた。

 異変が起こったのはそのときだった。

 水一面を覆っていた光の網が、突如、ぐるぐると高速回転の渦を描きはじめた。え、なにこれ。ぎょっと目を見開いた次の瞬間、今度は不透明に淀んでいた水が、色素の膜をぺろんとはがしたように透明になった。

 その透きとおった水面が、まるで映画のスクリーンのように、そこにあらざる人の影を映していた。

 小枝のように手足が細い、痩せっぽっちの女の子。幼いころの私自身だ。

「……なんで?」

 これはなに?

 パニクる私に、スワンがささやいた。

──あなたの心の澱ですよ。

澱? 

……って、スワンがしゃべった!

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もり・えと1968年、東京都生まれ。『リズム』で講談社児童文学新人賞を受賞し、91年に作家デビュー。同作品で椋鳩十児童文学賞も受賞。98年『つきのふね』で野間児童文芸賞、99年『カラフル』で産経児童出版文化賞を、2003年『DIVE!!』で小学館児童出版文化賞、06年『風に舞いあがるビニールシート』で第135回直木賞を受賞等、受賞歴多数。近著に『クラスメイツ』。