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元社員が迫る「フジテレビがダメになった原因」は、すべての会社が教訓とするべき事象である


『フジテレビはなぜ凋落したのか』(吉野嘉高/新潮社)

 直球のタイトルである。「凋落」には「勢いがおとろえること。おちぶれること」(『大辞林』より)という意味があるが、1980~90年代初頭の時代を牽引していたフジテレビを知らない、何をやっても裏目に出るような近年のイメージしかない若い世代の人たちには、凋落が意味していることが何だかさっぱりわからないだろう。

 フジテレビはコールサインである「JOCX」から業界用語で「CX」と呼ばれ、いわゆる「ギョーカイ」と呼ばれる華やかな世界を見せて80年代初頭に民放随一の人気局となった。台本よりもアドリブを重視し、テレビのタブーとされていた「楽屋落ち」「NG」「内輪受け」までも取り込んだお笑い芸人を中心とした編成のバラエティを作り、番組単位ではなく局全体のイメージ「楽しくなければテレビじゃない」を大々的にアピールして、1982年に初めて年間視聴率三冠王を獲得した。

 さらに『南極物語』『ビルマの竪琴』といった映画をヒットさせ、人気のある芸能人を先にキャスティングしてからドラマを制作する手法(それまでは企画や脚本などが出来上がってからキャスティングする場合が多かった)で「トレンディドラマ」を作り出してブームを巻き起こし、主題歌や原作本なども一緒にヒットさせる「メディアミックス」も行い、ほとんど放送されていなかった深夜枠を「若者向け」として開拓、女性アナウンサーを「女子アナ」と呼んでタレント化させるなど、現在に繋がるテレビのフォーマットを生み出し、日本のカルチャーにまで影響を与えた局だった。

 しかし現在、フジテレビは不振にあえいでいる。その原因を探る本書の著者は元フジテレビ社員の吉野嘉高氏だ。吉野氏は上記の80年代以降のフジテレビ(及びフジサンケイグループ)の状態を「フジテレビ村」と形容、この「村おこし」が番組を通じて業界関係者のみならず視聴者にまで仲間意識を持たせたと記している。その背景にあったのは、個性化が進んでいた当時の若者が望む、権威をぶち壊して自由になりたいという衝動とリンクしたことが一因ではないかと分析している。

 ところが30年以上経った今も、フジテレビ内部では「村祭り」が続いているという。これに対し、吉野氏は「もう、あの時代は終わったのだ」と古巣に活を入れている。

それなのにフジテレビは、「楽しくなければテレビじゃない」という感覚をいまだに原点として、あの黄金期に何度も戻ろうとする。視聴者は、世間の生活感覚からかけ離れ、仲間内だけでお祭りを続けている番組に呆れ果てている。いくら制作サイドが盛り上げようとしても、視聴者はついて来ない。もう、あの頃の“フジテレビ村”には戻れないのだ。

 村祭りがまだ終わっていないことを端的に示したのが、ドラマ『ラヴソング』に永島優美アナウンサーが出演したというニュースだ。元サッカー選手・永島昭浩氏の娘であり、エース女子アナの呼称である「パン」の名を持つユミパンが「月9」にゲスト出演、しかも美人過ぎる整備士としてメイクで顔まで汚しました、という内容だったが……どうだろう、どれほどの人がこの件に関心をもったのだろうか?

 かくいう私も、これまでフジテレビの番組を楽しみ、しかもフジサンケイグループの企業で働いたことのある、村祭りに参加していたひとりだ。なので、フジテレビの苦境は見ていて非常に心苦しい(もちろん永島アナに対する悪感情も一切ない)。それだけに本書の指摘と提言は的を射たものと感じた。そして吉野氏があとがきで「フジテレビの不調の原因は、他の多くの日本企業が抱える構造的問題と通底している」と書いている通り、本書はフジテレビが抱えている問題は多くの企業にとって他人事ではないことを端的に示している一冊でもある(東芝や三菱自動車の不祥事と根は同じだ)。

 なので、外野の人たちはダメだダメだと脊髄反射的に石を投げるのではなく、フジテレビの抱えている問題を「他山の石以て玉を攻むべし」としてもらいたい(そして番組を見るのが嫌なら、テレビには電源スイッチがあるので消せばいい)。またフジテレビで働く人たちには本書の提言を真摯に受け止め、まだ光を放っていない原石を探し出して、時間をかけて丁寧に磨いてほしいと切に願う。

文=成田全(ナリタタモツ)



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