ネット“炎上”は情報発信の萎縮に繋がる? 炎上の特効薬とは? 現在進行形のソーシャルメディアの問題を学術的に解説

社会

2016/6/3


『ネット炎上の研究 誰があおり、どう対処するのか』(田中辰雄、山口真一:著/勁草書房)

 数あるメディアの中でも比較的、自由な発言が許されるのはネットならではの強みだ。何かを発信するというハードルも低くなったが、昨今では“炎上”への警戒心も高まりつつある。

 記憶に新しいのは、数年前にニュースでもさんざん取り上げられた“バカッター問題”だ。職務中にふざける従業員。コンビニのアイスケースに入った人びとの画像がアップされるやいなや、瞬時に掲示板やSNS上で拡散。挙げ句の果てに個人情報まで特定される事態にもなった。

 炎上が問題とされたのはここ数年の印象もあり、現在進行形のものを分析するのはなかなか難しい。しかし、現象そのものを学術的に論じた『ネット炎上の研究 誰があおり、どう対処するのか』(田中辰雄、山口真一:著/勁草書房)という書籍があった。本書では、定量的な調査を裏付けとしてその背景に迫っているが、いったい何が起こっているのか。その内容を紹介してみたい。

発信がマスメディアからネットへ 変わりゆく“炎上”の性質

 本書では炎上を「ある人物や企業が発信した内容や行為について、ソーシャルメディアに批判的なコメントが殺到する現象」と定義している。ただし、きっかけとなる内容や行為はその場に限らない。加えて、ソーシャルメディアといっても対象はTwitterやFacebookに代表されるSNSだけではなく、ブログや掲示板なども該当する。

 メディアの歴史を振り返れば、炎上と呼べる現象は過去にもあった。政治家や著名人のスキャンダルはその一例で、こぞってテレビのワイドショーや週刊誌が押し寄せる事態があったのはいうまでもない。しかし近年、ソーシャルメディアが一般化した中では、過去の“炎上”とは異なる性質を持ち始めたという。

1)拡散力の違い
 スマートフォンも当たり前になった今、ひとつの情報を瞬時に多くの人びとが共有できるようになった。先の“バカッター問題”にあるような行為も、昔ならばごく限られた範囲でのみ語り草となりえたが、ネット上でアップすれば不満を持つ人たちの声が次々と拡散していく。これを本書では「意図せぬ公人化」と呼んでいる。

2)情報発信の容易化
 拡散の原動力である。端末の普及に伴い、ソーシャルメディアの利用者数も増加していった。以前は、批判の対象になりうるのはメディアに登場する人間に限られていた。しかし、誰でもたやすく情報発信ができる昨今、意見表明が自由になった一方、批判を浴びる行為を容易にさらすリスクも高まったということだ。

3)批判の可視化
 批判が批判を生み出す温床にもなりうる。ソーシャルメディアのコメントは多くの場合、運営者または書き込んだ本人の操作でしか削除できない。第三者的には炎上が今まさに起こっていることが伝わり、初めのうちこそ内容そのものが重視されていても、コメントが膨れ上がるごとに「炎上している」という事実のみが拡散されていく。

 増える参加者に「一種の連帯感も生まれる」と分析する本書では同時に、批判の対象者が閲覧可能なことで「大きな心理的負担」を抱えることも不安視している。

4)サイバーカスケードの存在
 サイバーカスケードとは、ネット上での現象を表す言葉だ。キーワード検索にみられるように、ネットはフィルタリングを通して容易に求める情報へ辿り着ける。そのため、同じ思考や主張を持つもの同士が繋がりやすい「集団極性化」を引き起こしやすい側面もあり、本書では「各人に都合のいい情報のみが溢れており、批判の声は届かず、サイバーカスケードの構築へと至る」とそのプロセスを解説する。

炎上に“特効薬”はあるのか? 事前と事後の対策を検討

 本書で検討される対策の一例はまず「話題の限定」という方法だ。飲み屋で禁句とされる政治、宗教、スポーツの話はもちろん、個々人の思想や趣味嗜好がはっきりと分かれ、さらに、意見の先でたがいの正解が無数にあるかのような話題はなるべく避けた方が無難だ。

 ただし、これは定義が漫然としており、なおかつ「議論の提起自体が難しくなる」と本書は指摘する。伝え方次第ともいえるが、そもそも言葉の一つひとつへ対する“批判的”という解釈自体が受け手により分かれるため、ともすれば「情報発信の萎縮という炎上の基本問題は解決されない」という。

 そして、万が一炎上が起こってから検討されるのは「謝罪」である。炎上の参加者を“攻撃側”とするならば、どこかの節目ではっきりと勝利をつかみ取れれば事態は収束するはずだ。しかし、本書はこの点についても「有効な解決策とはいえない」と危惧する。

 本書の根幹にあるのは炎上の先で社会的な「情報発信の萎縮」に繋がるという問題意識である。謝罪をしても攻撃の手が緩まない危険性があるのはもちろん、萎縮という意味では、自分に非がない場合にも謝罪を“強要”される状況へ陥れば事実上、自由が奪われかねない。また、ネットを“議論の場”としてみるならば、謝罪によりその時点で議論が停止することで「縮小均衡」へ向かう可能性もある。

 現状ではとりわけ、謝罪が功を奏するのは「個人ではなく企業や団体」であるというのは本書の見方だ。発言した個々の担当者が精神的に追い詰められる状況も浮かぶが、少なくとも、ひとつの存在としてみるならば「守るべき自由も自尊心もない」というのがその理由だ。一方、個人では最悪の場合「アカウントの停止、ブログの閉鎖」という「情報発信から撤退し、ひきこもることだけ」が選択肢になるという。

 現実に処罰される可能性がある発言や行為は問題外であるが、その反面、過度な批判により情報発信への警戒心が強まり、当たり障りのないものばかりが並んでしまえばネットに期待される本来の役割が失われかねない。そもそも何をもって“炎上”とするかの定義も判断が分かれるところだが、少なくとも、こうして情報を求める私たちのそばに横たわっているのは間違いない。

文=カネコシュウヘイ