「1人を犠牲に複数の命を救った」のは同じなのに、なぜ功罪の判定は逆になるのか? トロッコ問題で考える哲学

社会

公開日:2016/6/3


『「正義」は決められるのか? トロッコ問題で考える哲学入門』(トーマス・カスカート:著、小川仁志:監訳、高橋璃子:訳)/かんき出版)

 トロッコ問題というものをご存じだろうか。これは倫理などを語る際にしばしばたとえられるもので、簡単に言えば「5人を助けるために1人を犠牲にする事は許されるか」という問題である。倫理的ジレンマとも言われるこの問題を「もしもこれが事件だったら」という体裁で、その事件の裁判を追う形で考えているのが『「正義」は決められるのか? トロッコ問題で考える哲学入門』(トーマス・カスカート:著、小川仁志:監訳、高橋璃子:訳/かんき出版)だ。

 まず、その仮定の事件とはどのようなものかを説明しよう。これは、1人の女性が暴走する列車の被害を食い止めるため、線路の切り替えスイッチを操作し、列車を待機線に誘導した。それによって、本線に居た5人の命が救われたが、代わりに待機線に居た1人が命を落としてしまったという事件である。この切り替えスイッチを操作した女性は無罪であると世論は主張した。また、この列車の事件に対する比較対象として、もう1つの仮定の事件が挙げられている。こちらの被疑者は医師である。この医師の元に、事故に遭い重傷を負った6人の患者が緊急搬送されてきた。そのうち、5人はすぐにでも臓器移植をしなければ助からず、残りの1人は念のために検査が必要だったから搬送されてきただけで、まったくの無傷だった。そして、医師はその無傷の1人から必要な臓器を摘出し、他の5人に移植した。おかげでその5人は助かったが、当然ながら、その無傷だった人は死んでしまった。この医師には、裁判で殺人罪の有罪判決が下っている。

 こういった問題に対して、しばしば持ち出される考え方が功利主義だ。これは「最大多数の最大幸福」というスローガンを掲げ、常に最も多くの人が幸福になる選択を推奨する考え方である。この功利主義に基づくならば、列車の事件も、医師の事件も、どちらも正しい行為(=無罪になるべき事案)となる。何故なら、双方共に犠牲者の数を最小に抑え、より多くの命を救っているからだ。では、逆にどちらも有罪になるべきとする考え方もあるのだろうか? あるのだ。列車の事件でも、医師の事件でも、どちらも「故意に人の命を奪っている」という点で同じ事だとみる考え方だ。この場合、救われた命と失われた命の数の差し引きは問題にはならない。つまり、この考え方はそのまま「どんな理由であれ、人は人を殺すべきではない」という主張だと言える。

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 どちらの事件も「1人を犠牲にして複数の命を救った」という点では同じだ。しかし、実行者に対する罪の判定は真逆になっている。これに納得する人も居れば、先述したような主義主張のように「どちらも無罪」・「どちらも有罪」と考える人も居るだろう。だが、「1人を犠牲にして複数の命を救った」点ではどちらも同じなのだ。それでいて、何故に2つの事件では罪の判定が逆転するのだろうか? その答えの1つとして、実行者に明確な殺意があったか否かが問題になるのではないか、と本書では推考されている。つまり、列車の事件の場合、実行者の女性がやった事は線路の切り替えスイッチを操作した事のみだ。その結果がどうあれ、彼女の行動そのものに殺意は感じられない。対して、医師の事件の場合、実行者であるその医師は健康な患者を自ら死に追いやっている。自分の行為によって確実にその人が死に至るならば、そこに殺意が認められてもおかしくはない。簡潔にまとめると、列車の事件の場合、実行者には殺意が感じられなかった事に対し、医師の事件の場合は殺意が認められたからこそ、2つの事件に対する判定は真逆になった――という事だ。もしも、列車の事件は無罪で医師の事件は有罪だと直感した人が居たならば、その人は実行者に殺意があったかどうかを無意識に判断したのだろう。

 トロッコ問題の答えは、人によってさまざまである。これが正しい答えだ、という断定ができない以上、どんな答えであろうと間違っているという断言もできない。そして、この問題のような、倫理的ジレンマに陥る事は現実でもあり得るだろう。いわゆる彼方を立てれば此方が立たぬ……という状況だ。そんな状況があり、もしも自分がその渦中に置かれた時、どのような答えを出すべきなのか――トロッコ問題を通じて、その時の自分の決断を考えてみるのもいいだろう。

文=柚兎