「火村」シリーズの番外編が読める! 書き下ろし新作を無料公開

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2016/7/6


とある広場で“あの人”


今月の“あの人”は…火村」シリーズ

有栖川有栖

新装版 46番目の密室』 有栖川有栖/講談社文庫

臨床犯罪学者・火村英生と作家・有栖川有栖コンビが活躍するシリーズ第1作。ある年のクリスマス、有栖川は、友人の火村とともに北軽井沢を訪れていた。二人を家に招待したのは推理作家の真壁聖一。今年50歳になる彼は卓越したトリックの創造力で密室ものを得意とし〈日本のディクスン・カー〉と称されていた。現在、46番目の密室トリックを盛り込んだ長編を執筆中とのことだったが、クリスマス・パーティの席上で、本作を最後に「密室ものの打ち止め」を宣言、周囲はざわめく。その後、なんと地下室で真壁の死体が発見されて──。

「火村」シリーズ番外編

あるトリックの蹉跌(さてつ)【第一話】有栖川有栖


「お疲れさまでした、有栖川さん。難産でしたけれど、いい出来です」

 片桐光雄の第一声に、安堵の溜め息が洩れた。

「どうも」とだけ応えると、わが担当編集者は元気にまくしたてる。

「校閲がスタンバイしていますから、すぐにゲラにします。夜の……そうだな、八時ぐらいまでお待ちいただけますか。で、今晩中に著者校正をして、明日の朝までにファックスで戻してください。……もしもーし、有栖川有栖センセ、聞こえていますか? ぶっ倒れるのは著者校がすんでからですよぉ。──では」

 電話を切ると、いったんソファに横になった。今回ばかりは駄目なのではないか、と思った原稿をからくも徹夜で仕上げ、五時間ほど眠ったら目が覚めてしまった。昼食をすませたところへ担当者からの電話。

 作家になって数年しか経っていないというのに、ネタに困って締切前に慌てるのはどうにかならないものか。この体たらくでは、死ぬまで好きな小説を書き続ける、という希望をかなえるのは覚束ないだろう。

 おかしい、こんなはずではなかったのに。

 十七歳で初めてミステリを書き、作家を志してからデビューを果たすまで十年ばかりあった。なかなか世に出られないことに苛立ちながら、いくつものアイディアを創作ノートにストックしていたのだが、いざデビューしてみると、ほとんどが使えたものではなかった。ましなものは一生懸命に磨いて何とか作品にし、残っているのはどうにもならない不良品ばかり。

 頭の中に何もないわけではなく、小説の芽はたくさんある。それがすくすくと育ち、花を咲かせて実がなるまで、思っていた以上に時間がかかるのが問題なのだ。私は決して筆が遅い方ではないのだけれど、アイディアが実を結ぶまでに要する時間はとても長い。そのうち促成栽培のコツが掴めるよ、と楽観的に考えることにしているが、はたしてどうなるか……。

 今回は火事場の馬鹿力でしのいだが、この次もうまくいく保証はない。プロの作家たるもの、せめて〈次の作品〉は常に用意しておくべきである。そう思って、書斎から創作ノートを何冊か持ってきて、料理の仕方次第では使える材料がないかと丁寧に探す。が──ページをめくるほどに、期待は着実にしぼんでいった。

 考えてもみたまえ、有栖川有栖よ。そんな材料が見つかるわけない。このノートは、四、五日前にも苦し紛れに開いたばかりだ。

「待てよ。もう一冊あったはずや」

 再び書斎に行って本棚をよく見ると、ファイルとファイルの間に古いノートが挟まっていた。これを手に取るのは久しぶりだな、とその場で開いたら、懐かしさが込み上げてきた。よくこんな馬鹿なことを考えたな、という珍妙なトリックが目白押しで、楽しくなる。どれも冗談のネタにしかならないのが情けないが。

 何ページかめくり、〈詩人探偵(1)〉が出てきたところで懐旧の念は頂点に達した。大学二年の時に、短編ミステリの新人賞に投じた時のメモだ。風来坊の詩人がある事件の目撃証人となり、警察に先んじて謎を解いてしまう、というチャーミングにして稚拙な作品である。

 一次予選であっさりと落選したが、私にとって想い出深い一作だ。応募の締切が迫っていたものだから、愛用していた下書き用の原稿用紙の束を教室に持ち込み、授業中にせっせと書いた。高い授業料を親に出してもらいながら、不真面目な学生があったものだ。最初の十分ぐらいはちゃんと教授の話を聴いていたのだが。

 だいたい法学部の主たる講義が大教室で行なわれるのがよくない。階段教室の最上段など──実は教壇からよく見えるのかもしれないが──、こそこそ内職をするのに打ってつけである。さる准教授によると、「大教室に学生を詰め込める法学部や経済学部っていうのは、総合大学にとってドル箱らしい」とのことだ。

 さる准教授とは、大学時代から現在まで親交が続いている火村英生だ。後に犯罪社会学者となり、警察の捜査に協力して名探偵のごとく殺人事件の解決に貢献している彼と知り合ったのは、私が階段教室で〈詩人探偵〉執筆に没頭している時だった。

 十四年前。五月七日の麗らかな日。

 あの時、私が真面目に親族相続法の講義を聴いていたら、社会学部生の火村が向学心に燃えて他学部の講義を聴講にこなかったら、私たちは話すこともなく、素知らぬ顔のままキャンパスで幾度もすれ違い、二つの人生は分かれたままだったであろう。

 しかし、私は小説を書き、火村はあの教室にやってきて、隣の男が何を書いているのかが気に掛かって、原稿を覗き込み──読んだ。

 私たちの運命が交わった。

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ありすがわ・ありす1959年、大阪府生まれ。89年に『月光ゲーム』で作家デビュー。2003年『マレー鉄道の謎』で第56回日本推理作家協会賞、08年に『女王国の城』で第8回本格ミステリ大賞を受賞。著作に『怪しい店』『菩提樹荘の殺人』『幻坂』『江神二郎の洞察』『論理爆弾』『鍵の掛かった男』など多数。