東京都杉並区と横浜市青葉区、そこに住む「意識高い病」にかかった人々の共通点

社会

公開日:2016/7/20

杉並区民に面倒くさいひとが多い!?

 個人的に、杉並に恨みはまったくない。住んだこともない。それどころか実は杉並区がどこからどこまでなのかも正確には把握していなかったくらいだ。しかし非常によく目にし、耳にするのだ。「杉並区民って、面倒くさいひとが多いよね」「あーはいはい、杉並偉いえらい」「さすが杉並、意識高いわw」。なぜそんなに杉並に対して陰口が叩かれてしまうのか、みんなそんなに杉並が憎いのか。

・杉並区民って選民意識がにじむよね〜。(by 隣の練馬区民)
・左寄りの市民運動家が多い印象。保育所不足問題とか、住基ネット不参加運動とか、高速インター建設反対とか。
・大手デベロッパーが杉並に建てるマンション広告の定型句によると、「緑に抱かれ」「文化芸術の薫り高き」エリアらしいです。
・「文化人が多く住んでいるから街の文化度も民度も高い(ドヤ)」感を醸しがち。でもそう言うヤツに限ってフリーターに毛が生えたような……。
・「荻窪〜高円寺〜阿佐ヶ谷の文化度は東京でも別格、キタナイ飲み屋さえも”わかってる人びとのための場所”」という風を吹かせるのはなぜ。
・井の頭線への帰属意識が強い人々と、中央線文化圏への帰属意識が強い人々の2種類がいるのもすでに面倒くさい。
・たぶん杉並区民は、井の頭線後背の吉祥寺も三鷹のジブリも杉並の一部、「名誉杉並区」くらいの認識でいる。ただし練馬は除く。(by 元・杉並区民)

 私周辺で街の声を集めてみると、どうやら杉並が憎いわけではなく、杉並区民が「醸しがちなプライドの高さ」「世間の認識と本人たちの認識との乖離」に辟易している、あるいは引いているのが実情のようだ。本人たちが言うほどには大したことないのに、なんかやたら威張ってるよねメンドクサー、と若干小馬鹿にした気持ちが透けて見えるのが特徴である。

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 これは重大な問題だ。というのも、杉並がもし憎まれているのであれば、それは”愛”方面の感情と表裏一体なわけで、非杉並区民の杉並へ向けた憧れを多かれ少なかれ反映する。だが非区民たちは単純に「引いて」おり、「触らぬ神に祟りなし」の精神なのである。区民の熱い”杉並愛”に比べ、非区民の温度の低さったらない。

杉並の病は、横浜市青葉区のそれと似ている……?

 ここに、私はかねてから『月曜日から夜ふかし』(日テレ系)で”横浜問題”として議論され社会をお騒がせし続けている、わが町、神奈川県横浜市青葉区と似たニオイを感じるのだ。横浜市青葉区とは、マツコ・デラックス氏が「ホント厄介な路線よ!」「恐ろしい路線」と日本で最も忌み嫌う東急田園都市線沿線の中で、最も典型的な”田園都市意識”を放つエリア。都心で働くサラリーマンのベッドタウンとして「住民の平均収入も平均学歴も品も高いんですの」(収入と学歴は過去の都合のいい調査結果の一部抜粋、品はまったくの主観)とイヤ汁たらたらの人種が好んで住みつく、意識だけエベレスト級に高い魔境である。

 住民の私が言うのもなんだが、横浜市青葉区の嫌われようも相当なものだ。「どこに住んでるの?」や「どこ出身?」と聞かれて「神奈川」とは答えず「横浜の青葉区」とピンポイントで答え、「横浜市内の他の区とも、まして神奈川の他のわけわからない市や郡とも一緒にしないでね」との空気を滲ませ、プライド高すぎて超感じ悪いとの報告があちこちで上がる。

 いったいどうした、青葉区民。横浜市の最北部、”横濱”とは名ばかりで海なんかこれっぽっちもない、町田と川崎に肉薄するただの山の中の造成地のくせに。昔は”青葉”区も◯◯ヶ丘も◯◯野の地名も存在しない雑木林だったくせに。とりあえず他に特徴がなかったから、木とか草の名前に「丘」とか「台」とか「野」を適当に組み合わせてメルヘンチックな地名ロンダリングしたら、ちょうどマーケティング的に当たっただけのくせに。私が(横浜市青葉区民が格下認定している)川崎市民だった30年前、青葉区の友だちの家に遊びに行ったら駅前に見渡す限りの竹林が広がって掘りたての筍を路地販売していたくせに。まぁ、そう言いながらいまや青葉区に引っ越して、車に横浜ナンバーつけてる私の欺瞞にも自覚はあるのだが……。

 で、この横浜市青葉区の病を、自身が青葉区で育った評論家・東浩紀氏が「思い込みの強い人たちが住む町」と10年ほど前に言い当てていた。つまり、住民の「自分たちの選択は正しい、自分たちの生き方は正義、だからこの町には優れた良い人間が集まる、したがってここは住みよく魅力のある街」との思い込みが強いから、現実以上に「素敵な街、素敵な私たち」としての自己暗示が深まり、彼らのやたらと自信溢れる態度に影響を受けた人びとがまた流入してくるのだ。あの朝晩の田園都市線の殺人的なラッシュを見たら、「住みよい街」なんてどの口が言うのかと思うけれども。

ブランドアドレスの”ブランド力”の正体は、住民の自己暗示だ

 杉並区と横浜市青葉区の意識高い病の共通点は、「住民たちの自己暗示の深さ」なのではないか。そのセルフ洗脳の様子を、周囲は「なんかあいつらヤバい」と遠巻きに見ていて、それを「面倒くさい」と表現している感じがする。

 実はもう一つ、経済的な共通点にも注目したい。杉並区で起こった「保育園一揆」が日本の都市部の保育所不足と待機児童の多さをクローズアップさせ、若い女性の労働力参加を阻む原因として社会問題化したのは、2013年春。そのころまでに杉並区では、住民の懐具合や住民属性に変化があったと指摘されている。2013年に保育園入所を断られた子供の数が1800人と、保育園入所を希望する子供の数の3分の2にもあたるほどの需給関係の不均衡が起きたのは、リーマンショック以来の世帯年収低下に持ちこたえられず、ローン返済のために「当初の(専業主婦の)予定を変更して、妻にも稼ぐことを期待せざるを得なくなった」サラリーマン家庭の数が周辺他区よりも多かったのが遠因ではなかったか、との一部の分析もある。

 この、意識の高さに財布がついてこない感じが、より一層「この地に居を構えることを選択し、一生かけて家族のためにローンを払う自分たちの正義」への自己暗示を深化させる原因となっているのは、横浜市青葉区でもかなり頻繁に観察される現象だ。「地価レベル÷本当の懐具合=意識の高さ」というわけで、懐具合が悪化するほど逆に意識の高さが押し上げられ、こじらせるのである。「私たちの◯◯区を考え守る」市民の会とか、やたら頑張るPTAとか、あちこちにできる蕎麦打ちや陶芸のアトリエとか、見かけるでしょう(笑)。本当のお金持ちって、黙って多額の納税だけして、市中に存在を見せないものね。

 いわゆるブランドアドレスというのは、その土地が持つストーリーに加えて、自然か不自然かはともかく住民が醸成した集団の自己肯定感が鍵となっているのだ。私は川崎から横浜へと日和ってしまったけれど、練馬区のみなさんにはぜひ、ご当地ナンバー導入で練馬ナンバーから杉並ナンバーにこぞって変更する杉並人に惑わされず、杉並の迫害に負けず、自信を持って生涯練馬ナンバーで通していただきたいと切に願う次第である。

文=citrus河崎 環