実は「字が汚い人」ほど頭がいいってホント?

暮らし

更新日:2021/1/28

「字が綺麗?だから何?」だった米国

 美文字の秀才が秀才にとどまるのは、ひょっとすると”教養”や”美意識”を追求する動機の中に、「他人から見られること」「他者からの評価」が拭えないからかもしれないな、などと思うことがあります。他者からの評価を乞うのではなく、自分で自分の達成度やゴールを決めるような天才タイプは、他人にどう思われようが、比較されようが、自分で自分を褒めることも叱咤することもできる。だから、そういう子が字を綺麗に書くとすれば、それは人によく思われたいからではなくて、自分にとってそれが必要だからなのかもしれません。

 大学生のとき、米国の大学のサマースクールでエッセイライティング(小論文講座)の授業を受けていました。私なりに衝撃を受けたのが、いかにも日本人らしくたおやかで控えめだけど英語能力はイマイチな他の女子学生が、典型的な日本の英語教育で習得した美しいスクリプト(筆記体)でエッセイを提出したとき、教授が「うわぁ、こんな繊細な筆跡は初めて見た!」と驚いてみせ、しかし内容が不十分だったのでその場で再提出を通告したのです。「綺麗だけど、内容にもっとエネルギーを使うべき」とばかりに。

 ボストンの有名なアイビーリーグの大学でしたが、そこに通うアメリカ人たちの筆跡はどれも決して綺麗でないどころか、殴り書きに近いようなノートが散乱していました。ただ、書くスピードがとにかく速い。頭に浮かんだ先から書きつけているのがよく分かりました。大きな河を隔てた向こう岸には、もう一つ世界的に有名な理数系の大学があり、その学生たちの寮にも遊びに行きましたが、数学や物理を学ぶ彼らの部屋の中には、誰も読めないような数式(らしきもの)がのたくった紙が床じゅうに散らばっていました。天才たちの住処には美しく綴られた筆記体などなく、あるのは「彼らの思考を深めるために使われた文や記号や数式たち」でした。だからと言って、字が汚いほうが頭がいいなんてわけではないですよ! 「字の綺麗さ」にそれほど価値観をおかず、エネルギーも注がないということです。

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 日本では、美文字は「まともな大人のたしなみ」なのだとか。でも、広く世界に視野を広げればそれは素敵なスキルや美徳ではあるかもしれないけれど、日本のように、できないからといって「恥ずかしい」とか「頭が悪い」なんて烙印を押すようなことではないので、日本の初等教育で字の綺麗さにやたらとつぎ込むエネルギーは、もう少し他のこと――例えばもっと視野を広げること、知識を深めること、クリエイティブであることやユニークであることや逸脱を許すこと――に振り向けると、もう少し日本人全体が生きやすくなるかもしれませんね。まぁそう言いながら、キーボードや音声入力ばかりですっかり手書きをしなくなってしまった自分の筆跡が年々酷くなるのを見ると、毎年お正月あたりに「ペン字で美文字を身につけよう!」なんて折り込みチラシを熟読しちゃう私ですよ。

文=citrus河崎 環