山崎ナオコーラ『反人生』の番外編が読める! 書き下ろし新作を無料公開

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2016/10/6


とある広場で“あの人”


今月の“あの人”は…反人生』

荻原萩子

反人生』 山崎ナオコーラ/集英社

2034年8月現在、荻原萩子は55歳。これまで3度の大震災と二度の戦争を経験し、10年以上前に夫を亡くしてからはマンションの12階でひとり暮らしをしている。もともと「人生作りには、興味がない」と刹那的に生きてきた彼女にとって、ある程度の蓄えができた今の一番の関心事は、アルバイト先で知り合った早蕨という30歳年下の女性のこと。その感情をはっきり恋だと認識しながらも、相手に気持ちを伝えるつもりはなかった。何よりも早蕨とともに過ごす時間を大切にしたい。そんな萩子に早蕨の結婚という試練が訪れる――「反人生」。表題作を含む4編を所収する作品集。本作「普通の人には人生がない」では、57歳になった萩子の日常、亡き夫との思い出話が描かれる。

『反人生』番外編

普通の人には人生がない【第一話】山崎ナオコーラ


写真提供=Getty Image

「『秋やなあ、今朝は珈琲が特別強う匂うて来るように思いなされへん?』」 

 荻原萩子(おぎわらはぎこ)はコーヒーカップの縁の温かさをじんわりと手に移しながら、横目で窓を見てつぶやいた。木々は緑で、まだ紅葉は始まっていない。けれども空が青く透き通っていて、雲がうっすらと細長く浮かんでいる。「秋やなあ……」というのは、谷崎潤一郎の『細雪』の中に出てくる科白で、この科白が含まれる部分は、ストーリーにはまったく関係のない、ただの雑談の描写なのだが、萩子は妙に好きなのだった。これまでも友人の早蕨(さわらび)の前で、何度も引用して口にしてきた。

「そう、そう。おとといくらいから、秋」

 早蕨も頷く。くせっ毛の茶色い髪が、肩の上でくるくる揺れる。

「年を取ってくると秋に心が寄るわね。寂しい季節が好きなのよ」

 五十七歳の萩子が秋を味わうのは五十七回目だ。萩子は白髪交じりの髪をシニヨンにまとめている。

「そんなもん?」

 早蕨が尋ねる。早蕨は萩子より三十歳年下の二十七歳だ。

「少し涼しくなったから、ってだけのことかも。熱いコーヒーが嬉しい」

 ぼってりとした白磁を唇に当てて、萩子はカップを楽しむ。

「そうね、秋にコーヒーはよく似合う」

 早蕨は頷いて、自分もコーヒーをこくりと飲む。

「禁煙よね、ここ」

 ぼんやりとカフェの店内を萩子は見まわした。

「え? どうだろう? 店員さんに聞いてみる?」

 早蕨は目を大きく開いたあと、きょろきょろした。

「ううん。……このあと、一服ひろばへ行こうかな」

 萩子はつぶやいた。

「一服ひろばって、何?」

「隣町の墓地のことを、そう呼んでいるんだけどね」

「萩子さんって、煙草、吸うんだね。知らなかった」

 早蕨は、“もう二年以上、友人関係を続けているのに……”という驚いた顔をしている。

「たまにね、墓参りのときだけ」

「じゃあ、墓地って、旦那さんの?それを『一服ひろば』って呼んでるの?」

「そう、そう。……あははは」

 萩子は、急に小さい声で笑った。なぜ笑うのか。萩子は早蕨に恋をしている。恋人になりたい、だとか、結婚をしたい、だとかとは思っていないが、とにかく早蕨を大好きだ。三十歳も年下の同性の人物に恋をしたところで、どうなるものでもない。でも、好きだ。そして、特に伝えることはせず、友人関係を続けている。

 早蕨は、萩子が昔結婚をして、そのあと夫と死別したことを知っている。早蕨自身は一昨年に松風(まつかぜ)という十歳上の男と結婚した。

 結婚なんてなんでもない、と萩子は思っている。萩子は早蕨が結婚したあとも、早蕨を好きなままだ。行動に移さず、内心で慕ってどきどきすることにはなんの問題もないだろう。

 自分に結婚している過去があるというのも、恋に関係がない。萩子は仕事を始めた年や辞めた年を覚えていない。それと同じように、結婚した年も覚えていない。二〇〇九年に『1Q84』を読んだこと、二〇一七年に『スター・ウォーズ エピソード8』を観たこと、二〇二九年に『落穂拾い』を聴いたこと、そういったことの方を覚えている。読んだ本や観た映画、聴いた音楽、飲んだコーヒー、吸った煙草、友人のちょっとした科白、そういったものが二〇三六年の今の自分を作っている。昔、夫のことが好きだったので結婚したが、そのことによってその後の自分の定義が変わったとは思えない。だから、今、心の中で恋をするときに、結婚経験の有無はなんにも関係しない。

 そう、関係しない。でも、夫の話をするときは、つい笑ってしまう。関係しない、と思いながら、でもやっぱり、早蕨に後ろめたさを覚える。早蕨の結婚の際、萩子は猛反対した。それは早蕨のファッションが保守的になったり、年齢を急に気にし始めたり、世間の枠にとらわれる行動を始めたりした、と萩子の目に映ったからだったが、結婚というもの全体を否定したように早蕨に思われている気もして、だから、それなのに自分が結婚をしていたということが心苦しい。それで死んだ夫の話をするときは、へらへら笑ってふざけたくなる。

「じゃあ、旦那さんのお墓があるのは広場なの?」

「普通の墓地よ。高台にあって明るくて……。さっぱりした、いいところよ」

「このあと、旦那さんのお墓参りに行くの? まさか、命日とか?」

 早蕨は頓着しない顔で尋ねた。

「いいえ、命日は忘れちゃった。行きたくなったときに行くことにしてるから」

 萩子は首を振る。

「あのう……。私も一緒にお参りしていい?」

「いいわよ。でも、このあと用事があるって言ってなかった?」

「それは、ちょっと買いたい物があって、デパートに寄ろうと思ってただけだから、今度にする」

「そう?」

「一度、萩子さんの旦那さんにご挨拶したいと思ってたの」

「喜ぶわよ。夫は、私に友人が少ないのを心配していたから」

「でも、こんな格好でいいかな」

 早蕨は、虹がプリントされたTシャツを着ていた。

「いいよ」

 萩子が笑うと、

「萩子さんはちょうどいい格好しているね。最初から、お墓参りへ行くつもりだったの?」

 早蕨が尋ねる。

「私はいつもこうよ」

 萩子は肩をすくめた。萩子は黒いワンピースを着ている。ただ、黒とは言っても、ドレープがたくさん入っているデザインで、地味ではない。

 萩子は半年に一度ほど、急に思い立って、夫の墓参りへ行く。そして墓の前で、煙草が好きだった夫の代わりに煙草を吸ってみせる。夫がうらやましがるかもしれない、と考えながら……。

 早蕨が墓前に来たら夫が喜ぶ、と思ったのも本当だが、もしかしたら夫はやきもちを焼くかもしれない、とも想像する。心の中だけと言っても、早蕨は萩子の好きな人なのだから。煙草と好きな人を見せつけて、夫をやきもきさせたい。やきもきするあまりに夫が生き返ったらいいのに、そんなことも考える。

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やまざき・なおこーら●●1978年福岡県生まれ。2004年『人のセックスを笑うな』で文藝賞を受賞し、作家デビュー。著書に『浮世でランチ』『カツラ美容室別室』『論理と感性は相反しない』『この世は二人組ではできあがらない』『ニキの屈辱』『美しい距離』などがある。