桜木紫乃『ワン・モア』の番外編が読める! 書き下ろし新作を無料公開

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2016/12/6


とある広場で“あの人”


今月の“あの人”は…ワン・モア』

柿崎美和

ワン・モア』 桜木紫乃/角川文庫

患者の孫娘から切望されての処置だったはずの安楽死。柿崎美和はスキャンダルの禊のために加良古路島にやってきた。人間不信に陥っていた彼女はいつしか漁師の昴と身体を重ねるようになる。オリンピック予選の大舞台でドーピング検査にひっかかり、姿を消した天才スイマー。昴もそうした苦い過去を背負っていた。寄る辺ない日常を送る彼女のもとに、高校時代からの友人・滝澤鈴音から連絡が入る。「うちの病院を頼みたいの」。余命宣告を受けていた彼女の「そのとき」はいよいよ近づいているようだ。──「十六夜」。本作「ワン・モア・ステップ」で描かれるのはこの7年後。鈴音から病院を託された美和はどんな日々を生きているのか。

『ワン・モア』番外編

ワン・モア・ステップ【第一話】 桜木紫乃


写真提供=Getty Image

 見渡す限りの雪景色──北海道十勝のスキー場はパウダースノーに覆われていた。柿崎美和はリフトから降りて体の向きを変えた途端、自分がどこにいるのかわからなくなった。目を瞑り数秒、勢いをつけて開いた。

 週末を利用して十勝までスキーに行こうと言い出したのは高校の同級生、八木浩一だった。愛犬の世話を理由に断ろうとする美和に先手を打ったのは、滝澤医院開業当時からの看護師、寿美子だ。

「いいじゃないですか先生。たまには休んでください。すばるの面倒はわたしがみますから。日帰りなんてもったいない、どうせなら一泊でも二泊でもしてきたらいいのに」

「冗談じゃない。八木とふたりで泊まりがけの旅行なんて」

 言ったあと、寿美子が大笑いしたのが気に入らなかった。

──やだ先生、誰も同じ部屋に泊まれなんて言ってませんよ。

 休診日も医院の隣にある自宅にこもりきりの美和を外出させるため、周囲の人間があれこれと画策しているのは知っている。家族は愛犬のミニチュアシュナウザー一匹だ。四十半ばの美和を外出させるためにひと肌脱ぐのが高校の同級生という現実はどうなのか。もっとほかに方法はなかったのかと、自分をとりまく世界の狭さを軽く嘆いた。

 ゲレンデの頂上から五十メートルは急勾配だ。スキーデビューから二年の美和にはまだ少し恐怖感がある。たった五十メートルと聞いても、ひと息つける一本松までのあいだは全身から力が抜けない。

 雪の白さが目に染みた。八木がふたつ後のリフトから降りてくる。それぞれ板もブーツもレンタルだ。年に一回のレジャーに投資する必要はないという美和の態度に、見栄張りの八木が珍しく承知した。

 滑り始める前に一服したい。八木はそんな美和の様子に気づいたのか、顎でちいさなロッジを示した。ロッジの前に数人、息とは少し違う色の煙を吐いているウェア姿が見えた。

「ありがと」

 ロッジの前に「一服ひろば」と描かれた腰高の灰皿がある。雪の上にスキーを立てて、美和が近づくと、先客の男がひょいと頭を下げて場所を空けた。懐かしい流行歌が流れている。

「なにボケッとしてんだよ」

 ゲレンデに響く冬の曲に紛れて、八木がすぐそばにいることに気づかなかった。美和はウェアのポケットから煙草とライターを取り出す。火を点けて香りを大きく吸い込んだ。

 美和はグローブを外せばすぐにかじかんでしまいそうな手の中にある、サービスでもらったライターを見た。煙草のおまけになっても、その価格で流通しなくなっても「百円ライター」と呼ばれている。

「どうした、凍えるぞ」

「このライター、あたしみたいだ」

 いつもの調子で言ったつもりだったが、八木の表情が曇る。

「ライターとお前に、いったいどんな因果関係があるんだよ。お前も俺も、やさぐれたまんま歳取って、スキー場まで来ていつもと同じ台詞か」

「突っかかるね、今日は。八木らしくもない」

 いや、充分に八木は八木らしいのだ。美和が私財を投じて助けようと決めた滝澤医院開業者の鈴音が逝ってから、二年が経とうとしている。余命半年という診断を受けてから五年の命だった。

 五年間─周りの人間すべてに微笑みながら、鈴音は逝った。志も役目も果たせなかった美和にまで礼を言って逝った──。

 お前さ──、美和の吐いた煙の先に白い吐息を重ねながら、八木がためらいがちに言った。

「ひとりで抱えるの、やめろよもう」

「なんも抱えてないよ。抱えるもんがないから、周囲があんたと一緒にさせようと躍起になってるんじゃないの」

「本当にわかってんなら、月に一回くらい外に出ろ」

「毎日、犬の散歩してるって」

「その散歩を、ひとりでするなって言ってんだよ」

 美和は黙った。少し上を向くと、青いばかりの空に向かって煙草の煙が散ってゆく。八木がおおきなため息をひとつ吐いた。

「お前もいい加減、ひとりに飽きろ」

「八木が飽きたからって、一緒にしないでよ」

 美和とともに、この男も長年の友を失ったのだ。高校時代から憧れ続けた鈴音の隣には、いつも夫がいた。最期まで彼女は夫から心を逸らさなかったし、誰もがそんな彼女を愛したのだ。

 あんたとふたりで舐め合う傷なんて──、言いかけた唇に煙草を挟んだ。言わなくてもいいひとことだった。

「一服、おわり」

 細石を敷き詰めた灰皿には、ため息を吐かせ終えた吸い殻が何本も横たわっていた。

 グローブをはめて、立てておいた板を雪に倒した。ふたり並んでスタート場所へと向かう。

「あたしが初心者だってこと忘れないでよ」

 滑り出した男の背中を追いかけながら、一本松を目指してつま先に力を入れた。流れてゆく景色に、風の音が重なった。

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さくらぎ・しの●1965年、北海道生まれ。2002年「雪虫」でオール讀物新人賞を受賞して作家デビュー。釧新郷土芸術賞(12年)、『ラブレス』で、島清恋愛文学賞(13年)受賞。13年『ホテルローヤル』で直木賞受賞。ほかの著書に『起終点駅(ターミナル)』『蛇行する月』『無垢の領域』『星々たち』『ブルース』など。