全長3.7m! 大人も子どもも楽しめる、フランス発のしかけ絵本に込められたメッセージは……?

文芸・カルチャー

更新日:2017/11/13

『メガロポリス―空から宇宙人がやってきた!』(クレア・デュドネ:作、ドリアン助川:訳/NHK出版)

絵本は子どものためのもの、という感覚はもう古い。近頃は親が子に読ませる絵本を選ぶ基準として「大人が読んでもおもしろいか」が、重要になってきているというし、実際に絵のクオリティが高いものや高度な仕掛けが施されたものは無数にある。もはや絵本は、芸術の一ジャンルといっても過言ではないだろう。

2016年9月25日まで、森アーツセンターギャラリーでルーヴル美術館特別展 「ルーヴルNo.9 ~漫画、9番目の芸術~」が開催されていた(2016年12月から2017年1月にかけて大阪でも開催され、その後は福岡、名古屋と巡回予定)。近年の日本国内では、漫画大国といえば日本と思われがちだが、アメリカにはアメコミの文化が、フランスにはバンド・デシネという漫画の文化が、それぞれ根付いている。

私が思うに、芸術作品としての絵本が脚光を浴びるようになったのは、漫画が芸術表現のひとつと捉えられ、世間的・世界的に評価されたのとほぼ同時期。単なる懐古趣味でなく、大人になったいまだからこそ、子どものころに親しんだ作品に込められたメッセージを読み取れる。大人だからこそ胸を打たれる作画のすばらしさ、仕掛け絵本に代表されるような表現力の豊かさに、私たちは驚かされるのだ。

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大人も楽しめるという意味で『メガロポリス―空から宇宙人がやってきた!』(クレア・デュドネ:作、ドリアン助川:訳/NHK出版)のメッセージ性や芸術性、そして表現力には、目を見張るものがある。当然、絵本という媒体である以上、子どもが読んでも充分楽しめるし、そのための仕組みも用意されている(というか、本来はそこが主眼なのだろうけど……)

本書は「本」と呼ぶには長すぎる。長いというのは話が、ではなく全長が、だ。まるで屛風絵のように長く巨大な1枚の絵が、絵本の格好に収まっている。その長さ3.7m。ページを下へめくっていくと、紙芝居のように該当する場面の文章が読めるという、一風変わったつくりは、ほかではなかなかないだろう。

「ここは大きな大きな街、メガロポリス。大むかしから、旅をする人たちのあこがれの場所です。みんな、とても遠くからたずねてきます。ある日のこと、とうとうほかの星からも旅人がやってきました」

こうして物語の幕が開く。すべての読者にやさしく語りかけるようなトーン。翻訳は、作家でミュージシャンでもあるドリアン助川。著書『あん』が2015年に映画化され、カンヌ国際映画祭でも高く評価されたのは記憶に新しい。そんなドリアン助川による訳は、切り絵さながらのタッチが印象的な本書の画風にピタリとはまっている。ちなみに、個人的なお気に入りの名訳はこれ。

「めずらしいお客様に、市長さんは大よろこび。広場に集まる人たちにむかって、『今日は祝日にしちゃおう!』と、よびかけました。それは宇宙人を『お・も・て・な・し』するためです」

人工衛星を尻目に空からやってきた宇宙人は、物語が進むにつれて上から下へと下っていく。比喩的な意味でなく、空間的な意味で。「下る」という状態は、一般的に好ましくない場合が多いもので、実際にこの宇宙人も都合のよいことばかり経験するわけではない。歓迎ムードで現地人にもてなされ、街中を案内されるものの、思いもよらない事故に遭い、宇宙人は帰らぬ人となってしまう……。

仮にこの物語の結末が、宇宙人と地球人が絆や愛で結ばれる類のハッピーエンドだったとしたら。それはそれで構わないが、悪い意味で大人の見方をすると一種のしこりが残る。すなわち「宇宙人」という人間ならざるモノを人々が受け入れられるのかどうか。映画『シザーハンズ』で描かれた異形迫害の人間心理といってもよい。要するに「宇宙人と暮らすなんて現実的には無理でしょ」という冷めた感覚はどうしても拭えない。

もちろん「絵本は架空の話なのだから」とか「そんな揚げ足を取っても仕方がない」と反論できる。しかし、大人が「所詮、子ども相手の作り話だ」という気持ちで読み聞かせる絵本と「これって実は大事なことを言っているな」と感銘を受けながら読む絵本――どちらが子どもたちの心に響くだろうか。

私が本書を読んで感じた、作者のやさしさは特筆すべきだと思う。『シザーハンズ』では描かれなかった「みんなが幸せになれるエンディング」――この美しい読後感は、絵本という媒体にしか許されていないのかもしれない。

文=上原純(Office Ti+)