【今週の大人センテンス】映画「この世界の片隅に」が描いた日常の尊さと愛おしさ

映画

2016/11/28

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 巷には、今日も味わい深いセンテンスがあふれている。そんな中から、大人として着目したい「大人センテンス」をピックアップ。あの手この手で大人の教訓を読み取ってみよう。

第34回 強く生きていく決意を込めた感謝の言葉

「ありがとう。この世界の片隅にウチを見つけてくれて」by北條すず(映画「この世界の片隅に」主人公)

【センテンスの生い立ち】
11月12日に公開された長編アニメ映画「この世界の片隅に」が、大きな反響を呼んでいる。「ぴあ映画初日満足度ランキング」では、満足度95.2で1位に輝いた。物語の舞台は、第二次世界大戦中の広島。18歳で生まれ育った広島市から20キロ離れた呉に嫁いできたすずは、戦争が激しさを増していく中でも、日常の営みを大切にして前向きに生きようとする。すずの声を演じているのは、能年玲奈改め「のん」。これ以上ないはまり役である。

【3つの大人ポイント】
・深い愛や心からの感謝やある種の覚悟が込められている
・運命を受け入れ、自分の人生に正面から向き合っている
・静かな言葉で戦争の不条理さを浮かび上がらせている

 アニメーションだからなおさら、主人公の切なさや悲しさや辛くても前を向いて生きていこうとするケナゲさが、深く心に沁み込んで来るのかもしれません。実写だったら余分な情報が多すぎて、これだけ「リアリティ」豊かな表現はできないでしょう。アニメーションだからできた、アニメーションの力をあらためて感じさせてくれる映画です。

 公開前から、試写を見た人がこぞって「すごい映画だ!」と称賛していました。公開されたのは11月12日(土曜日)。その直後から、SNS上に「絶対に観に行ったほうがいい!」という興奮気味の書き込みが次々に流れてきました。ただならぬ気配を感じて、さっそく映画館へ。打ちのめされるとは、まさにこのことです。前評判の高さにハードルが上がりまくっていましたが、それを軽々と越えてしまう素晴らしい作品でした。

 主人公の北條すずは、広島市の海辺の町に昭和の初めに生まれます。絵が大好きで、性格はおっとりのんびり。昭和19年、20キロほど離れた軍港の街・呉に嫁ぎます。戦争が徐々に激しくなり、配給物資が減っていく中でも、すずは日常を大切にしながら前を向いて生きていました。いろんな出来事があり、いろんな出会いと別れがあります。

 映画の詳しい情報や、公開後の反響はこちら⇒「この世界の片隅に」公式サイト

 けっして声高に「戦争反対」を叫ぶのではなく、戦時中の普通の人の普通の暮らしを丹念に描くことで、むしろ鮮やかに戦争の不条理さを浮かび上がらせてくれるストーリー。瀬戸内の海と山、徹底的に調べ上げて再現したという当時の街並みなどを淡い色調で描いたビジュアル。心に響く主題歌。そして、主人公のすずの声を「あまちゃん」の能年玲奈改め「のん」が演じたことで、いかに素晴らしい世界が現われてくれたか。

 映画の中で物語が進んでいくのを観ながらずっと意識せざるを得ないのが、昭和20年8月6日に広島に原爆が落とされることと、8月15日に日本が戦争に負けてしまうこと。すずの「ありがとう。この世界の片隅にウチを見つけてくれて」というセリフは予告編でも流れていますが、どういう場面で誰に向けて発せられたものなのか、ここでは曖昧にさせておいてください。

 このセリフと、もうひとつ「笑顔」について語ったセリフが、映画全体のテーマを象徴しています。ひと言でいうと、それは普通の日常の尊さと愛おしさ。そして、運命を受け入れて自分の人生に正面から向き合おうとしている強さ。映画に描かれた場所や時代だけでなく、普通の日常が尊くて愛おしくて、人生に正面から向き合うことが大切なのは、現代を生きる私たちにとっても同じです。すずの強さは、人としてもっとも大事にしなければいけない強さです。

 監督の片渕須直(「マイマイ新子と千年の魔法」など)が、こうの史代の漫画『この世界の片隅に』をアニメ化したいと思ったのは、2010年夏のこと。それから映画が完成するまでには、長い苦難の道のりがありました。製作が完全に決まって出資者が集まる前から、片渕監督は身銭を切りながら準備を進めていきます。ところが、資金はすぐに底を突き、最後は貯金が4万5000円になってしまったとか。しかし、片渕監督はけっして映画化をあきらめませんでした。

 状況が好転したのは、2015年の春に実施したクラウドファンディングがきっかけです。最終的に3,374人から約3,900万円の支援金が集まり、いかにたくさんの人がこの映画の完成を期待しているかが示されました。その金額は実際には映画を作るために必要な予算の1割程度ですが、反響の大きさを見て出資企業が集まり始め、製作が正式に決定。片渕監督をはじめ関係者の熱意と執念が実を結び、6年目の今年、ついに映画は完成しました。

 主人公・すずの声を演じて、映画を観た人が口をそろえて絶賛している「のん」も、ここまでの道のりはなかなか険しいものでした。NHKの朝ドラ「あまちゃん」で一気にブレイクしたのは、2013年のこと。その後も映画などに出演していましたが、事務所とのトラブルなどがあって、一時は休業状態に追い込まれます。そんなこんなで、現在は(本名なのに)「能年玲奈」の芸名を使うことはできません。

 片渕監督は「のん」にすず役をオファーする前から、彼女の声や話し方をイメージしながら作業を進めていたとか。辛い状況にあった「のん」ですが、監督のラブコールに応えて、それはそれは見事に、おそらくは監督の期待をはるかに超える「すず」を誕生させました。本当か嘘か、声優に「のん」を起用したことで、メディアが大人の事情でこの映画を紹介しづらくなったという噂もあります。もしそんなことがあるならなおさら、たとえそんなことはなくても、この映画を観たらその魅力を周囲の人に熱く伝えずにはいられません。

 観に行ってから3日ほど経っていますが、予告編の動画を何度も見返しては、そのたびに胸が熱くなり目を潤ませています。頭の中では、コトリンゴが歌う主題歌「悲しくてやりきれない」が無限リフレインで流れています。ウソだと思ったら、観てみてください。

【今週の大人の教訓】
声高に叫ぶことが、相手の心を動かす有効な手段とは限らない

文=citrusコラムニスト 石原壮一郎