出版社vs.作家!? 名作誕生の裏にバトルあり

文芸・カルチャー

更新日:2017/11/12

『あらゆる文士は娼婦である 19世紀フランスの出版人と作家たち』(石橋正孝、倉方健作/白水社)

 ユゴー、ゾラ、ボードレール、ヴェルレーヌ……。この本に登場するのは、まさに19世紀フランス文学を代表する錚々たる顔ぶれである。実際に作品を読んだことはなくても、名前や作品名くらいは聞いたことがある人も多いのではないだろうか。もっとも、いつもは文学史で主役扱いを受ける偉大な文学者たちも、今回ばかりは、どちらかというと脇役に過ぎない。本書『あらゆる文士は娼婦である 19世紀フランスの出版人と作家たち』(石橋正孝、倉方健作/白水社)の主役は、あくまで彼らの周囲にいた当時の出版業者なのだ。

 フランスの文学史において、19世紀は、今日でも出版社名や叢書名としてその名を留めるような、偉大な出版社が相次いで創業された時代でもあった。19世紀フランス文学の歩みは、これらの出版社の創業者が試行錯誤を繰り返し、事業の拡大を図っていった時期とぴったり重なる。

 当時の出版業者は、今でいう出版社、取次業者、本屋すべてを兼ねたような存在であって、作家になろうとする若者はまず、その主たる出版人――創業者に認めてもらわなければならなかった。出版人は、作品の販売責任者として、ときには編集者として、作家たちを支えていった。出版人を中心に文学サロンが形成され、そこから新しい文学の潮流が生まれることすらあったのである。

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 当然のことながら、どんなに優れた作品が書かれたとしても、それが世に知られなければ「名作」として認知されることはない。たとえ出版当時は売れなかったとしても、テクストが「本」という形で残っているということが重要である。もしテクスト自体がこの世から完全に消滅してしまったとしたら、後世の人々がそれを発見・評価することは不可能だ。作家や詩人が書いた作品を、出版業者が「本」として世に出し、人々の手に届ける。この一連の作業の繰り返しによって、後世に残るような多くの名作が誕生していったのである。

 それにもかかわらず、これまで文学史の世界では、名作誕生に多大な貢献をしたはずの出版業者は、あたかも文学者たちのオマケのように扱われてきた。完全に存在を無視されることもあったし、作家や詩人から才能を搾取する極悪人として描かれることもあった。なかには本書に登場するヴァニエ書店のレオン・ヴァニエのように、「人殺し」と後ろ指を指される出版人すらあったのである。

 確かに全面的に作家サイドに立つならば、そのような見方をしたくなるのも分からなくはない。作家にとって出版業者は共犯者であると同時に、最初に倒さなければならない敵でもある。作品の持ち込みを断られ、それを恨みに思うこともあっただろう。また原稿料や作品に関する権利の売買、作品の方向性をめぐって、バトルを繰り広げることも日常的にあった。ボードレールのように、作家が出版業者に足元を見られ、作品を安値で買い叩かれるケースもなかったわけではない。

 ただ出版業者は出版業者の側で必死であった。本を売って利益を出さなければ会社は潰れてしまうし、同業他社との競争もある。場合によっては、自社に利益をもたらしてくれるはずの作家も敵になりうる。看板作家が出版業者を鞍替えするようなことは当たり前にある。ユゴーのようにいくつもの出版業者を手玉に取った、やり手の大御所作家もいた。ヴェルレーヌやゾラのように、金の無心や印税の前借りをもくろむ連中もいた。作家イコール善玉とは限らないのである。

 出版業者の方も、油断のならない作家たちや同業他社、そして世の中と懸命に戦っていたのだ。彼らの奮闘努力を無視して、文学史を語ることは片手落ちといわざるを得ない。裏方であるがゆえに忘れられがちな出版人たちの活躍、そしてその栄枯盛衰を、本書は活き活きと描きだす。作品を形にし、戦略的に売り出す彼らの存在がなければ、我々が当時の作家や詩人の存在を決して知ることはなかった。『レ・ミゼラブル』の出版権をめぐる攻防戦に勝利し一世を風靡したラクロワ、詩が売れなかった時代に若い詩人たちの拠り所となったルメールなど、魅力的な出版人たちが登場し、繰り広げるドラマの数々。フランス文学好きはもちろん、本作りの現場に興味のあるすべての人におすすめしたい1冊だ。

文=遠野莉子