日銀本店からの全国への現金輸送には鉄道が使われていた―秘密に包まれた専用車両「マニ34形」とは?

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公開日:2016/12/19

『現金輸送車物語─タブーとなったマニ34・30形─』(和田洋/ネコ・パブリッシング)

 読者諸氏は、かつて日本銀行本店から全国の支店への現金輸送に、鉄道を用いていたことをご存じだろうか。高速道路網が発達する以前、長距離輸送の主役は鉄道であり、現金輸送も例外ではなかった。とはいえ小生自身、実際の現金輸送列車を見たことがなく、どんなものだったのかと常々思っていたが、そんな折にこの一冊と出会う。それが『現金輸送車物語-タブーとなったマニ34・30形-』(和田洋/ネコ・パブリッシング)だ。

 本書は1949年に登場した現金輸送専用車両である「マニ34形」(以降「マニ車」)を当時の写真や関係者からの聞き込みにより、その登場から半世紀余りの活躍をひもとく一冊だ。現金輸送という特殊な任務のため、当時は秘匿された車内の写真や運用実態の解説もあり、鉄道ファンならずとも好奇心が刺激されるだろう。

 マニ車の開発にあたり日銀からは「車両の外見は普通の荷物車とあまり変わらないものに。ただし安全レベルは高度な特別な構造」との要請があった。当時の写真を見ると表面は確かに地味な印象で、側面からは一見すると窓の少ない客車のようだが、車両中央部に細めの扉と少し離れた両側に大きめの扉がある。中央扉内には日銀職員と鉄道公安官が乗り込む部屋を設置し、そこには椅子やテーブル以外に、トイレや暖房を完備している。そして両側の頑丈で大きな扉には現金を積み込む荷物室を設置。また各窓には防弾ガラスを用いている。その後、幾度かの改装が行われ、1978年には新造車両へと置き換えられたものの、基本構造は同じだ。

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 ちなみに普通の貨車は広い荷物スペースがあるだけで、戦前はそこに現金を収納する木箱と担当職員が、直接乗り込み業務にあたっていた。暖房やトイレはおろか座るための椅子すらなく、職員は木箱に座っていたそうだ。トイレは途中駅で済ませるしかなく、そのため時折乗り遅れてしまい、後続の旅客列車で追いかけることもあった。ところが貨物列車の方が足が遅いので、大抵は追いついていたというから面白い。

 本書には、マニ車に乗って全国の支店へ飛び回っていた日銀OBからの証言も収められており、現金輸送という特殊な業務の苦労がうかがえる。たとえば、業務自体は出張扱いであるが機密保持のため、指示が来るのは2日前。しかも出張先すら知らされず、乗り込むための東京駅か上野駅かへの出頭を命じられるのだ。

 中でも大変だったのは、北海道釧路支店への輸送だという。当時マニ車は機関車に引かれる夜行列車に1両併結されていた。上野を夕方に出発し、翌朝には青森へ。当時の青函連絡船で北海道へ渡り、更に一晩走りようやく釧路へ到着する。途中駅で多少は車外へ出られるものの、やはり相当疲れそうだ。小生自身、帰省で夜行列車を利用したことはあるが、たった1晩6時間の利用でも結構疲れたものだ。それを2晩続けるとは、考えるだけでも腰が痛くなる。エリートである日銀職員も、なかなか大変である。

 こうして、日本経済を陰から支えたマニ車だが、残念ながらその性質上、具体的な現金輸送量などの記録は公開されていない。しかしその性能から、最大輸送量は1回につき1400億円と、著者の和田洋氏は推測している。

 やがて高速道路網の発達に伴い、その責務を自動車輸送へと徐々に譲ることになる。鉄道での輸送は、積み込み時に駅で大掛かりな警備体制が必要となるが、自動車なら本店で積み込み支店で降ろすだけなので、警備コストが抑えられるのだ。そして、ついにマニ車の引退する時が来たのだが、実は意外と最近で2004年3月末のことである。通勤時、すれ違った列車にも連結されていたのかも。

 引退後、マニ車は1両が北海道の小樽市総合博物館で展示されている。機会があれば是非とも間近で、往事の活躍へと思いを馳せてほしい。特急列車のような華やかさはないが、その重要性は勝るとも劣らない。鉄道ファンでない人々にも、こうした事業用車両の意義を意識してもらえればと、鉄道ファンの一人として願っている。

文=犬山しんのすけ