東洋初の地下鉄・銀座線は上野から浅草を駆け抜けた!鉄道一筋の実業家が挑んだ地下鉄誕生物語!

文芸・カルチャー

更新日:2017/11/12

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『東京の地下鉄路線網はどのようにつくられたのか』(東京地下鉄研究会/洋泉社)

 アジア初の地下鉄が開業したのは、今から90年前の昭和2年(1927)12月30日のこと。東京の上野~浅草間を結ぶ初代東京地下鉄道で、現在は東京メトロ銀座線の一部となっている。今年90周年を迎えるにあたり、開業当時の車両である旧1000形を、内装まで雰囲気を再現した特別車両1000系1139編成と1140編成の2編成も導入され話題となっている。その再現度に、当時の地下鉄へと思いを馳せれば開発の歴史にも興味が湧いてくる。そんな時に見つけたのが『東京の地下鉄路線網はどのようにつくられたのか』(東京地下鉄研究会/洋泉社)である。

 本書は東洋初の地下鉄誕生物語をはじめ、東京を縦横無尽に駆け抜ける地下鉄路線の建設秘話をたっぷりと紹介している。各路線の開業当時の写真も掲載され、当時を知る人には懐かしく、当時を知らない小生ならばなおのこと興味を惹かれる内容だ。

ちなみに世界初の地下鉄は、1863年に英国で開業したロンドン地下鉄である。しかし当時は蒸気機関車しかなく、トンネル内で煙を噴き上げ走っていた。当然ながら換気が必要で、いくつも通気口を設けたり機関車の排煙を減らす改良もされたりしたが、開業から40年間は煙対策に追われたそうだ。なお、日本の地下鉄は開業当時から電車なので、そんな心配はなかったという。

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では、そもそもなぜ東京に地下鉄が必要だったのだろうか。それは交通渋滞の解消が目的である。明治36年(1903年)に路面電車が開業し、大正9年(1920年)には総延長100kmに及ぶほどまで整備されたが、1両当たりの輸送人員が70名ほどと少なく、ラッシュ時には今と同様にスシ詰め状態で運行。さらに速度も遅く、既にバスやタクシーも走っていた道路を渋滞させる要因ともなっていた。のちに路面電車が衰退する要因は意外にも大正時代からあったのだ。

その慢性的な渋滞を解消するため、先に挙げた英国を参考に地下鉄を提案したのが「地下鉄の父」とも呼ばれる早川徳次(はやかわのりつぐ)である。彼は早稲田大学を卒業後、南満州鉄道に入社。次いで内閣鉄道院に入局し、さらにその後、佐野鉄道(現在の東武佐野線)と高野登山鉄道(現在の南海高野線)の経営を立て直した鉄道一筋の実業家だ。

当時の日本には先進的すぎる案のせいか、当初は政府から理解が得られなかったものの、緻密な調査で実現性を示し認可される。そして大正14年(1925)9月27日の起工式から2年がかりで開業にこぎつける。距離にすればわずか2.2kmほどだが、日本初の地下鉄工事だけにやはり難航したそうだ。しかし、交通をできる限り妨げないように作業が進められたことは特筆に価する。現代の地下鉄工事現場でも地下を掘り進めつつ、分厚い鉄板(覆工板)などで覆われたその上を車が行き交う光景を見た人もいるだろう。それが当時も行なわれていたのだ。「あんな時代によくもできたな」と、元・工事現場の警備員だった小生は驚くばかりである。

上野~浅草間だけだった旧東京地下鉄道もやがて上野~新橋へと延伸。そして、渋谷から伸びてきた当時のライバル会社である東京高速鉄道と接続し現在の東京メトロ銀座線へと至る。その後、東京の地下鉄は世界有数の路線網を持つほどに発達していった。また、私鉄やJRとの直通運転も特徴だろう。名古屋や大阪などでも見られる運行形態だが、路線数でいえばやはり東京が一番。正直なところ、小生も路線図を見なければ接続がわからない。

地下鉄というと、車窓から見える景色がトンネルと駅の繰り返しで、それを退屈だと思う人も多いだろう。小生とて昔はそう感じていた。だが、地下鉄の複雑さと精巧さを知って以来、そのトンネルの壁面には鉄道建設技術の粋が集められているのだと認識を改めた。もっとも銀座線は渋谷駅手前で地上の高架橋へと出る。地下を抜けたらいきなりビル街で、道路を下に見ながらまた駅ビルへと入っていくのもまた面白い。

文=犬山しんのすけ