『この世界の片隅に』片渕監督に「もの凄い“嫉妬心”しかない」。『機動戦士ガンダム』富野監督は「すず」をどう捉えたのか?【後編】

映画

更新日:2017/3/13


キャラクターや舞台設定の巧みさ

――「すずさん」というキャラクターですが、原作での描かれ方と映画とで異なる部分に注目も集まりました。監督は、すずさんをどのように描こうとしたのでしょうか?

片渕須直監督(以下、片渕): 本当ならば、こうの史代さんの原作はまるごと全部映画にしなければ意味がないと思っています。ただ、それは自ずと限界があり、1つは製作費の問題、もう1つは興行にかけられる約2時間という上限があるだろうなと考えました。そこで、残すべきだと思ったのは、すずさんが「なぜ日常生活を営んでいたはずだったのに、その中で何に追い詰められて、自分が戦争をする側という意識に至ってしまったのか」という部分だったのかなと思うんです。

 それは一人で生きているなかでは、彼女はそこまでは辿りつけなかったのかも知れないんですけれど。でも彼女が自分が咎(とが)を負う、ある種責任を負わされたような形になって、彼女の姪が死んでしまう。そういうような、罪悪感を植え付けられてしまった部分ってあるんじゃないかなと思うんですよ。

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 戦争というのは、いろんな部分で何が一番罪か、といえば、もちろん人を殺(あや)めるのは罪なんですけど、人を誰が殺めたのか、といえば昨日まで普通の一般市民だった人が徴兵されてきた兵隊だったりするわけです。そうやって、人が本来犯すべきではない罪を背負わされたりとか、罪ですらないのに罪悪感を背負わされてしまうことではないかなと思います。その末にすずさんが「私は戦っているのだ」という意識に至ってしまうのではないかなと考えて、その筋道を据えようと思いました。

©こうの史代・双葉社/「この世界の片隅に」製作委員会

富野由悠季監督(以下、富野): 観客の立場から、別の言い方をすると、あの時代を極めて冷静に、客観的に表現している、ということに尽きます。イデオロギー色がついていない、監督の「体臭」もついていない作品で、それがあの時代というのは「こうなんだ」というのがストレートに感じられる作りになっています。

 作り方の問題で重要なこともあります。まさに呉という町で軍港を見下ろせるという状況にあるために、客観的に描く際に、無意識のうちにあの時代性を直截に反映させる描き方ができたということです。軍港を眺めながら、「失業して大変だった。仕事が増えて良かった」と登場人物たちが語っています。すずの舅となった円太郎が空襲を受けた最中に「あの機関銃とあのエンジンはすごい」と言ったりする。あれは兵器のスペックの表現ではなく、円太郎の生活のなかでの日常用語だから、口をついて出てくるわけです。そういう風に描けるために、巧まずして(図らずも)、軍国主義化というのも角が立つ表現ですが、戦時下の情勢を極めて明快に描けているわけで、そういう道具立ての素晴らしさがあります。

 逆に、こうの史代さんの原作について気になっていることもあります。僕が原作を読んだのは恥ずかしながら去年の夏頃です。とんでもないマンガがあることを知って、衝撃を受けたんです。その時にはアニメ制作が進んでいると知って、ガックリきたという(笑)とにかく、どうしてこんな風に作れるのだろうと思った時に、こうの史代さんが広島ご出身で、ずっと広島で暮してこられたと知り、「ああ良い勘をしておられるな」と思いました。呉を舞台にすることによって、逆に広島を描けるという構造を持っているんですね。

 ただ、映画・マンガともに観ていてわからなかったのが、すずの出身地である広島の“江波の景色”です。あれはどこなのかと思ったのは、ぼくが関東の人間だからです。あれは理解の外側にありました。自分で調べてもみたんですが、当時のああいう暮らしをしている写真はあったんですか?

片渕: あると思います。江波は広島の市内といっても、昔から郊外、田舎だったんですね。


富野: 田舎論はわかるんです。東京も海沿いの郊外に行くと海苔作りをやっていた場所もあって、そことの距離感を考えればわかるんですけど。でも映画を1回目に観たときも、「これ広島より遠いよね、どこなんだろう? ひょっとしたら四国かも知れない」という感覚を持ったくらいです(笑)

 そういう地理関係が全部わかってきたときに、まさに近代、日本が都市化していく、産業が勃興し、埋め立て地がどんどん増えていく、そういうところから押しやられる一家がいるんだよね、というのもまさに良い舞台作りをしているなと、改めて感じました。

片渕: すずさんの実の父親は、十郎という名前なんです。つまり十男なんです。彼は後に継がせるものを何も持っていない。一方、海苔は売ると儲かる高級食材だったんですね。彼はどうやら、その儲けを海苔を干す土地代に使い果たしていて、それですずさんが、こぢんまりした子に育ってしまったんじゃないか、ということでしょう。そうやって営んできた海苔作りをするための浅瀬が埋め立てられて、造船所に変わる。そのこと自体が――つまりその造船所がなんのためのものか、といえば、日本の近代化はもちろんなんですが、やはり、直後に戦争が起こり、そのためのものになっていってしまう。どんどん、そうやっていろんなものが奪われていく。そのことをすずさんたちは、寂しいなあとは思っているんですよね。だけど、どうも流されている。そういう時代の流れなんだ、と。

 すずさんはちょっと面白くて、最後まで着物を着ている子どもなんです。周りの子どもたちがみんな洋服になっていくなかで。彼女は抵抗をしないんです。でも、自分は時代に乗り遅れていると思いながらも生きている。戦争が激しくなってきても、それを平和な意識のまま眺めていたりしますね。

©こうの史代・双葉社/「この世界の片隅に」製作委員会

富野: おそらく一般市民と呼ばれる人たち、そういう人たちが大半だと思っている部分があります。ですから、すずさんは――僕の言葉でいうと「トロい」のではなくて――普通なんじゃないのかな、という感じがします。

 だから、そういう造形も含めてなんですが、それを実写でやったらどうなるのか? ということも観ている間考えていて、やはりアニメの絵が持っている――「力」という言い方はしませんが――「象徴性」というものがシンボルとして機能していると思いました。それこそすずさんが嫁入りをしてから戦争が終わるまでの2年間、その成長を描いた物語ではないと思うのですが、それでも彼女は成長する。それがすごく綺麗に描かれていて、うかつな役者を連れてきたら、その役者の「個性」が出てしまうので、すずという物語上のキャラクター=シンボル――別の言い方をすれば偶像としての「アイドル」――としての形を作れないだろう、とは思いますね。

 そういう意味でアニメ映画の機能性はとても優れている、ということも今回再確認させてもらいました。「物語がリアルであるがばかりに、観ているうちに実写なのかアニメなのかわからなくなって、最後まで観てしまった」という感想を目にしますが、そんなのは当たり前で、記号論を正確に機能させていくと、下手な実写――つまりうかつなリアリズムよりも、よりリアルに印象に残る作品に仕上がる。それを上手にやってくれた、この作品はすごいなと思っています。本当のことを言うと、もの凄い「嫉妬心」しかないんですよ、この監督には。

片渕: ありがとうございます(笑)。

富野: 俺がやりたかったんだけど、俺にはできなかった。それから、時代性の認識を考えた時に、僕のような俗に言うプログラムピクチャー的に、機械的にものを作っていく人間は、戦争の描き方一つにしても、すごくステレオタイプなものにしていくだろう、けれどもこの映画はそうなっていない。すぐれてユニークな作品だと言えるんです。

©こうの史代・双葉社/「この世界の片隅に」製作委員会

 そして、僕のようにメカから戦争を見ていた人間が舌を巻いたワンカットが、『この世界の片隅に』にはあります。よく空襲のシーンを挙げる人がいますが、全然わかってない。「戦艦大和の正面からのワンカット」がそれです。ちゃんと意味が込められていて、それをワンカットに収めたのはすごいですね。あの大和に乗っている兵員の大きさ。それがもの凄くリアルに動いていて、軍艦上の日常がストーキング出来ているんです。大和の入港の様子を見た人に聞いたんでしょ?

©こうの史代・双葉社/「この世界の片隅に」製作委員会

片渕: 聞いていないです。あれは、海軍の運用術の教科書などを一通り調べての結果です。

富野: 証言は取っていないんですか!? わー悔しい……。だとしたら、よくやったな、と思います。呉の町にいる人、大和を作った人たちは、実際にああいう様子を見ているはずなんです。あれは「メカ好き」の絵じゃないんです。メカのシーンなんだけど、呉の軍港と町を描き続けている中での日常のシーンなんですよ。「大和でさえ、こういう風にしたか、この監督は何なんだろうか!?」って本当に腹を立てたんじゃなくて、嫉妬だけなんです。これは俺にはできないって。


片渕: ちなみに大和の原画を描いたのは、『宇宙戦艦ヤマト2199』と同じ原画マンなんですよ。そこはやはり演出の問題ですね。

富野: それは当たり前です。技術論から言えばそうなります。なので、こういうコントロールをしている監督は素敵だなって思いました。

片渕: 僕はメカ好きではあるんですよ。むしろ飛行機とかもの凄く好きなんですけど、それを表に出してこの映画を作ると、すごく恥ずかしいことになるな、という意識は強くあったんですよね。富野さんは一時、零戦の設計者のことを映像にしたい、とも仰っていました。そういうご自分の立場というのもちゃんとお持ちなんじゃないかなと思いますけど?

富野: 持っています。零戦の設計者のことを描きたいと思った時には、『風立ちぬ』で宮崎監督がやってらっしゃるんだけども、もっと以前に零戦の映画を作りたいと思った時に、もうちょっと違う視点で描けるという自信があったんです。が、宮崎監督の零戦の設計者「堀越二郎」への見方をみて、まあガマンはできました。でもぼくは、技術者というのは極めて無定見だという目線を零戦あたりから持ち始めているので、言ってしまえば「反戦映画」になってしまうんで作れなかったんでしょうね(笑)。

片渕: ああ、なるほど。

富野: むしろ、メカのことを考えるようになった時から、とか、あれに乗せられるパイロットの立場を考えた時から、乗れるものを作っているから「特攻」が生まれるのであって、乗れるものがなければ、それは生まれなかったわけです。そういうものに手を貸してしまった技術者というのはいるわけです。でも「僕は技術を行使しているだけで、使い方は政治家・軍人の問題なんです」という言い方があるんだけど、果たしてそうなのかと思い始めたころから、日本で戦争・技術論をテーマに映画を撮る時には、零戦を使うのが一番早いので、結局それがフックになるから撮りたいとは思ったんです。

 技術の達成度合いの高貴な部分を描くことが、必ずしも良いことだと僕は思っていません。まして、コンピュータの時代になればなるほど、技術の行使がとても危険なことだと思っています。特攻が良い例で、市民でも軍人でも、「普通の人」に高度な技術を与えたら何が起こるのかといった時に、何が起こるかわからない。まさかコンピュータでエロ動画を見ることになるとは、設計者は思っていなかったはずです(笑)。Facebookのように人の関係性が構築できれば、人間社会は豊かになるだろうと思ったら、犯罪が起こっている。そういうことに技術者というのは責任を取りません。

片渕: 僕は映画の中では、円太郎という技術者を出しています。彼は結局、終戦の日には自分の手塩にかけた設計図を焼かなければならない。でも同じ日に、女性たちは、その日の晩ご飯を作るための火をおこしている。そこで、ある種の象徴的なものは見えないかなと思いました。いろんな歴史的な問題、位置づけということにもなるのですが、何よりも『この世界の片隅に』の原作者こうの史代さんは女性であり、「歴史や地理が苦手」だと自認されています。逆に言えば、もの凄く広くて客観的な、公平な立場からこの作品を描かれたんだと思います。


富野: 全くそのとおりだと思います。だからこそ作品として残りうるんであって、うかつにメッセージを入れてしまったら最後、つまらない――「お前、その程度の言葉しか使えないのね」っていう作品になったと思いますよ。

――最後に、『この世界の片隅に』など2016年は劇場アニメが好成績を残しました。アニメの歴史にとって、昨年はどのように総括されるのでしょうか?

富野: 後付けで評論することは幾らでもできるから、それはしません。ただ、物事なんでもそうなんですけど、地球はこうしてグルグル回っていて、そこで暮らさせてもらっている我々ですから、簡単に言ってしまえば、バイオリズム・波はあるんです。去年はそういう時だったんだろうな、と思います。

 ヒット作やタレント、プロレスのようなスポーツでもそうなんですが、1人だけがそこから出てくるということはないんですよ。必ず2、3人が束になって、わっと出てきて急速に「時代」がくる。そういう時代だったんですよね、という言い方しかできない。だけども、間違いなく世代交代が確実に行われた、ということは象徴されています。このことは曖昧に見ていちゃいけないだろうと思います。それから僕みたいな人間からすると、嫉妬心だけ燃やして「こんな監督は嫌いだ!」とかって言っていても、今更もう仕方がないんだから、もう負けは負けで認めて、キチンと評論しましょうよ、と心を入れ替えたので、今日こういうお話をさせてもらってます。

 ただ、だからと言って、いまの時代の評価論だけは絶対認めませんよ。もうちょっと、こういう見方もあるんです、という話をしたかったのです。

 この映画の肝のひとつがここにあります。原作マンガでももちろんそれは行われているのですが、止め絵でしか表現できないために、アニメではじめて達成できていることがあるんです。それは――絵が描けるということなんです。絵を描く右手、です。

 絵を描くことができる右手、絵を描いていった時には、海の向こうに見える白波も、白い兎が跳んでいるように見えるんだよね。シンボルや、象徴という言い方をしていたんですが、あれがまさしくそれなんですよ。それを見事に描いている。白波だけでなく、空襲のシーンも「メカ好き」ならあんな絵は許せない。鉛筆で描いて、数だけ並べて……動かせよってなる(笑)。でも、すずが見た絵なんだからいいでしょ! 文句いうな! って。そういうところに、アニメの絵の「象徴」ではなくて、映画の中での映像の象徴性というものが、こういう形で見事に使われているという、ギミックの性能の良さというのは認めてほしい。映像を立派に、機能の高いものにしようとした時に「綺麗な絵」とか「細密な絵」とか、リアルに描けばいいのか、ということではないでしょ、と。そういう説明をもの凄く端的に説明できる一例でもあると思います。僕は本当に嬉しい作品と出会えたと思っています。

 尚且つこの作品が優れているのは、すずというヒロインが右手で、絵を描くことが得意であるということ。そのすずの、その右手がなくなってしまう、というお話なんだよね。右手をなくした時、すずはどういう風に泣いたかというと、あの子は右手がなくなったことに対して泣いていない。そんな馬鹿なことが……となって、エンディングに向かう中で、「被爆者」とはあからさまには語られない。シラミを殺すために熱湯を……という、あの時代の客観性。終戦の時は4つでしたから、僕もシラミのことはなんとなく覚えている年齢です。まさに巧まずして、客観的に、「この時代は大変だった」ということを(直截には)何ひとつ言わずに、するするっとまとめているという意味では――本当にあの、言い過ぎるかも知れないんだけど……言い過ぎるな(笑)。うん、ちょっとした「宝」だなあと思っています。

片渕: ありがとうございました。


【前編】『この世界の片隅に』は宝――「実写以上に」戦時中の日常を描ききっている! 富野監督が片渕監督に伝えたかった言葉とは?

取材・文=まつもとあつし 写真=岡村大輔

※2人の対談の模様は、3月17日に本オープンとなる、アニメ・ゲーム・声優関係の様々な番組コンテンツを配信する新しいポータル「AG-ON Premium」でお楽しみいただけます。

【特別番組概要①】
■タイトル:『和田昌之と長久友紀のWADAX Radio』特別編「富野由悠季監督×片渕須直監督対談」※対談特番「前篇」
■出演者:和田昌之(エクスアーツジャパン代表取締役社長)、長久友紀(声優)
■ゲスト:富野由悠季監督、片渕須直監督
■視聴可能期間:好評配信中~2017年8月20日(日)23:59まで
■配信媒体:AG-ON Premium https://agonp.jp/
※今回の「特別編」は「超!A&G+」では配信されません。

【特別番組概要②】
■タイトル:ダ・ヴィンチニュース編~映画『この世界の片隅に」富野監督×片渕監督 特別対談 ※対談特番「後篇」
■出演者:富野由悠季監督、片渕須直監督
■視聴可能期間:2017年3月10日(金)16:00~9月10日(日)23:59まで
■配信媒体:AG-ON Premium https://agonp.jp/