窪美澄最新作!「大切な人の死を忘れられない男」と「恋の仕方を知らない女」は、“最悪の出会い”から次第に惹かれあう…

文芸・カルチャー

2017/3/13

 

『やめるときも、すこやかなるときも』(窪美澄/集英社)
 

全国から桜のたよりが届く頃、今年は書店の店頭にも美しい花が咲く。窪美澄さんの待望の新作長編『やめるときも、すこやかなるときも』(集英社)の表紙にはやわらかな青空をバックに花が美しく咲き誇り、結婚式の愛の宣誓を引用したタイトルと共に「幸せなはじまりの予感」をふわりと心に届ける。

確かにこれは「幸せ」の物語だ。いつのまにか誰かを愛することに臆病になったふたりの大人が、少しずつ互いを慈しみあう道のりが丹念に描かれる。だが、その道のりは大きな痛みやトラウマを伴う困難なもの。やはり大人の恋愛は「好き」だけでは難しい。

心の奥に孤独を抱えた家具職人の須藤壱晴が目覚めるとベッドに知らない女が寝ていた。どうやら昨日の結婚パーティで知り合った女を家につれてきたものの、泥酔して何もしないまま寝たらしい。あえて女の顔も確認せず壱晴は仕事に出かけるが、後日、再び会うことになる。

須藤の個展用のパンフレットを制作する印刷会社の営業にその女・本橋桜子が偶然現れる。最悪の出会いは別にして仕事では信頼関係を築いていくふたり。お互いの丁寧な仕事と人柄に興味を持ち次第に惹かれるようになる。だが、ふたりの恋はスムーズに進むわけではない。実は過去に大切な人を失った壱晴は、そのショックから冬のある時期に声が出なくなるという心因性障害を抱えており、一方の桜子は仕事と家に追われて32歳まで恋とは縁がなく(一度、彼らしき存在はいたが重いと去られてしまう)、異性との関わり方そのものがわからない。だが、それぞれが前に進むため、ふたりは互いを知らないままつきあいはじめる。そして壱晴は桜子に過去の痛みをすべて吐き出せば自分が変われるかもと期待を抱き、そんな壱晴を桜子は受け止めたいとは思いつつ、家の重圧も相まってしんどさを感じてしまう。

実際、忙しかったり余裕がなかったりすると、人は自分のことしか考えなくなるものだ。こと恋愛においても、相手のことを考えているようでいて、心の中では「この恋を選んで(私は)大丈夫?」「なぜあの人は(私を)わかってくれないの?」と自分本位になってしまうもの。ヘタに人生経験を積んでしまうと重症化し、むしろ無防備に「他者をまるごと受け入れ慈しむ」という愛情の基本に到達するのは至難の業。なぜなら自分のみっともなさや欠けた部分、トラウマもさらけ出して自らを投げ出さなければ、相手をそのまま受け入れるなんてできないからだ。それには相当な勇気というか、「覚悟」が必要になってくる。

ふたりは結果的に、さまざまな出来事で自らを開示し「他者を受け入れ他者と生きる」ことのぬくもりを知ることになる。ゆっくりと相手に負担をかけないようにセンシティブに進む姿に激しさはないけれど、「やめるときも、すこやかなるときも」と素直に愛の宣誓ができるようなゆるぎなさがある。

なお物語には会社を倒産させて飲んだくれになり暴力をふるう桜子の父と、それに耐え忍ぶ母が登場するが、父の暴力は歪んでしまった愛情の残骸でもあり、「夫婦だからいっしょにいるの。これからも」と言ってのける母は、その残骸をも受け入れる覚悟の固まりにもみえる。両親の不甲斐なさに家族を重荷と感じるだけだった桜子は、次第に実は家族の存在も大切な「他者」であったことに気がつく。

「ああ恋愛ってこうやるんだったなぁ」と、ちょっと新鮮な感慨もある物語。ひとりで生きていくのも、他者と生きていくのも、どっちにもしんどいことはあるけれど、誰かといるのもやっぱり悪くないかもしれない。

文=荒井理恵