「あきらめとは、自分の中の可能性を広げること」【宮下奈都インタビュー後編】

文芸・カルチャー

更新日:2017/11/12

2016年、『羊と鋼の森』(文藝春秋)で第13回本屋大賞を受賞し、一躍人気作家となった宮下奈都。このたび、彼女のデビュー作となる『静かな雨』(文藝春秋)が12年の時を経て書籍化された。執筆当時、右も左もわからず無我夢中で作品を書き上げたと話す宮下。インタビュー後編では、デビュー作が完成するまでの日々、そして『羊と鋼の森』にも通ずる、宮下が追い求める〈小説のテーマ〉について話を伺った。

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ママ友との関係性が〈こよみさん〉誕生にきっかけに

『静かな雨』の物語の軸となるのは、少々気が弱いけれど実直な青年〈行助〉とパチンコ屋の駐車場でたいやきを売る女性〈こよみ〉との交流だ。特にこよみのキャラクターがずば抜けて魅力的。作中で彼女の過去にまつわる説明描写は少なく、それが断片的に垣間見えていくという構成だ。読者は行助の気持ちになり、こよみの言動に逐一驚かされることになる。

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「執筆当時、小さな男の子が二人と、お腹の中にも赤ちゃんがいたんです。それで子どもを連れてよく公園に遊びに行っていたんですが、そこで会うママ友って、実はお互いに素性を知らないんですよね。だけど、それは怖いことではなくて、人間にはそれぞれに人生があって、知らない顔もあるということ。それが新鮮で、作品にも反映したんだと思います。こよみさんがピアノを習っていた、大学をドロップアウトしていた、そういったことを散りばめていきました」

そんなこよみが口にする言葉は、時に哲学的で重みがある。たとえば、〈あきらめるのってとても大事なこと〉〈あきらめかたを間違えると全部ダメにしちゃう〉と語るシーンがある。そして、偶然にも『羊と鋼の森』の中でも“あきらめること”に言及するシーンがしばしば出てくるのだ。この言葉が持つ意味を、宮下はどう受け止めているのだろうか。

「デビュー作を書いていた時、子どもが小さくて自分のことが何もできなかったんです。『もしかして、私は子どもを生んだことでいろんなことをあきらめたのかな』という疑問も湧くくらい。でも、出産って、本来ならばすごく可能性を広げることだと思うんです。それは決してあきらめではない。それを自分でも再確認するために“あきらめとは何か”が自然とテーマになっていたのかもしれません。もちろん、子どもたちの方が大事なのは事実。だけど、子どもを優先しつつも、私自身の中にまだ力や生きる意味は残っていて、まだまだ人生は広がっていくと思うんです。そんな想いが作品に現れていますね」

宮下の言う「あきらめ」とは決してネガティブな意味ではなく、「自分の中に眠る他の可能性に気がつく」ということなのだろう。それは『羊と鋼の森』でも繰り返し言及されている。つまり、デビュー作の時点で、彼女が伝えたいテーマは定まっていたということだ。「何も考えずに書いていた」と本人は笑うが、その根底には書くことで伝えたい揺るぎないものが眠っていたということだろう。

どんなに好きな人とでも、世界を共有することはできない

さらに、こよみのクールさを際立たせるセリフがある。〈あたしの世界にもあなたはいる。あなたの世界にもあたしがいる。でも、ふたつの世界は同じものではないの〉。非常に冷たく響くような言葉だが、そこにも宮下の想いがこめられている。

「私、すごく好きな人と結婚したんですけど、ある時、どんなに好きでも生きている世界は同じではないことに気づいたんです。だけど、それはあきらめじゃなくて、違う世界に生きている者同士でも一緒に生きていくことができるってことなんだな、と。もちろん、それに気づくまでには相当時間がかかったんですけどね(笑)。こうしてお話してみると、やっぱりデビュー作には私の想いが至るところに詰まっていますね」

それ以外にも作中には印象的な言葉やシーンが多数登場する。中でも、明るい月が見えているのに雨が降る夜に、こよみが空を見上げて涙を流すシーンはなんとも美しい。記憶障害になってしまったにもかかわらず、決して弱みを見せなかった彼女が、初めて見せた涙――。宮下自身も「こよみさんが泣けて良かったと思いながら書きました」と回想する。そのシーンに込められた意味は、ぜひ本作を読んで感じ取ってもらいたい。

最後に次回作の構想を聞くと、宮下は「自分の好きなものを追求したい」と口を開いた。

「今後どんなものを書いていくか、今は全然想像もつかないですけど、書きたいものを書いていくしかないなという気がしています。自分が読んで面白いもの、書く喜びを感じられるもの。まずは自分が最初の読者ですね。そして、そうやって楽しみながら書くことで、待っていてくれる読者の方々にも喜んでいただける作品になるんじゃないかと思っています」

作家・宮下奈都の幻のデビュー作。12年の時を経ても色褪せない本作は、本屋大賞受賞作家の、新たな代表作になるのだろう。今日の宮下がいかに形作られたのか、その一端にぜひ触れてみてほしい。

【掲載書籍】

取材・文=五十嵐 大