救いなし、報いなしでも観るのを止められない!『バッドエンドの誘惑~なぜ人は厭な映画を観たいと思うのか~』

エンタメ

2017/4/2

『バッドエンドの誘惑~なぜ人は厭な映画を観たいと思うのか~』(洋泉社)

 誰もが現実に起こる惨劇には心を痛めたり、怒りを覚えたりする。なのになぜ、フィクションとなると進んで後味の悪い作品を鑑賞してしまう人がいるのだろうか? そんな人々は理不尽な展開にショックを受け、感情をズタズタにされながらも、また同じように暗い映画を探してしまう。「バッドエンド」には抗い難い魅力が満ちているのかもしれない。

 数々の雑誌やWEBで活躍するライター、真魚八重子もバッドエンドに魅せられた一人だ。最新著書『バッドエンドの誘惑~なぜ人は厭な映画を観たいと思うのか~』(洋泉社)はバッドエンドが待ち受けている映画作品の構造を深く分析し、人がバッドエンドに引き寄せられる理由に迫る、斬新な映画評論である。なお、本書の目的上、ほとんどの紹介作品で「ネタバレ」が行われているので、読書の際にはご注意を。

 バッドエンドといっても、難病の家族と死別したり、ままならぬ恋に破れたりするような類の映画は本書の対象外である。「あざとさ」こそが本書の天敵だと著者は宣言する。理由を著者はこう述べる。

観る者を泣かせたい作り手と、ストレス発散のため泣きたい観客の欲望が一致した映画は、バッドエンドとはいえないでしょう。

 それゆえ、ここで取り上げられているのは、感動や共感を呼び起こされる隙間のない、正真正銘のバッドエンド映画だけだ。「タイミングが悪い」登場人物の行動の連鎖が取り返しのつかない悲劇を生む『ミスト』や『ミスティック・リバー』、全編を覆う「絶望の長さ」に打ちのめされる『レクイエム・フォー・ドリーム』や『ゾディアック』、「報いなし」の人生に戦慄する『ぼくのエリ 200歳の少女』、『ヒメアノ~ル』。バッドエンドのタイプごとにカテゴライズされた作品群は、文章で追うだけでも心が重くなる内容の連続である。それでも、鑑賞済み作品の分析には大いに頷かされ、未見作品への興味がかきたてられていく。胃が痛むような思いをしながらもページをめくる手を止められない、この感覚こそがバッドエンド映画の引力なのだ。

 特に面白かったのは「世界イヤ映画紀行」と冠された、お国柄ごとにバッドエンド映画の特徴を考察する章である。「恨(ハン)」という独自の概念に基づき、過剰な暴力で画面が満たされた韓国バッドエンド映画は、日本でも支持する映画ファンが後を絶たない。寂しく内省的なイギリスのバッドエンド映画は、やはりロックの国という気がしてくる。ポール・ヴァーホーヴェン監督作品をはじめとして、悪趣味でゲスな映画を輩出し続けるオランダの突き抜けっぷりも驚異的だ。

 そして、紹介作品に共通しているのはすさまじいまでのパワーである。観る者を突き放し、トラウマを植え付けるバッドエンド映画のインパクトは、ある意味でハッピーエンド映画すらも軽く凌駕している。たとえば、貧しい不良少年たちがただただ受難に苦しむ、ルイス・ブニュエル監督『忘れられた人々』はどこまでも救いのない物語だ。不良少年のハイボには思いやりが一切なく、仲間すらも自分勝手な思い込みで殺してしまう。登場人物の誰にも感情移入ができず、神経を逆撫でされる作品だが、それゆえに忘れ去ることなどできない。次の著者の指摘は圧倒的に正しい。

観終わった瞬間のどん底さに、「監督のやり遂げた凄まじい絶望」を感じ、負の方向へ全力で向かった映画の力を思い知らされるのだ。

 人がバッドエンド映画を観ずにいられないのは、そこに映画の根源的な力が宿っているからである。観ている間は楽しくても、劇場を出ればあらすじさえ思い出せないような作品が増えていく中、バッドエンド映画は抗う観客をねじ伏せるようにして、記憶に残っていく。これまで「悲しい話はちょっと…」と敬遠してきた人こそ、本書をきっかけにしてバッドエンド映画に挑戦してみてはどうだろうか?

文=石塚就一