『アルプスの少女ハイジ』は、ある人物の情熱から生まれた! 本気で「アニメ」に取り組む人々の物語

マンガ

公開日:2017/4/7

『ハイジが生まれた日――テレビアニメの金字塔を築いた人々』(ちばかおり/岩波書店)

 おそらくこの日本においてTVアニメ『アルプスの少女ハイジ』をまったく知らない人は稀有であろう。このタイトルを聞いたことがないという人も、見たことはあるはずだ。例えば「家庭教師のトライ」という会社のCMで起用されているキャラクターは、まさに『ハイジ』のもの。関連グッズも多く発売されており、切手にもなっている。なぜこのように国民的な人気アニメとなったのか、その理由を『ハイジが生まれた日――テレビアニメの金字塔を築いた人々』(ちばかおり/岩波書店)では、アニメの制作過程を丁寧に追いながら、多くのエピソードを交えつつ明らかにしている。

 まず『ハイジ』のキーパーソンとして思い浮かぶのは誰だろうか。「スタジオジブリ」で一時代を築いた宮崎駿氏や高畑勲氏あたりが想起されるという人も多いはず。しかし本書の著者であるちばかおり氏は、真っ先にプロデューサー・高橋茂人氏の名を挙げる。

 そもそも高橋氏と『ハイジ』の出会いは、少年時代に遡る。1940年、父親が北京で仕事をしていた関係で、高橋少年も北京へ渡ることに。当時の北京には世界各国の租界があった。租界とは外国人居留地を指し、世界各国の生活スタイルが形成されていたのである。フランス租界で暮らしていたという高橋少年は、フランスパンやプディングなどを日常的に食べるなど、本物の「西洋」を体験していた。その時にスイス人作家のヨハンナ・シュピーリが著した『ハイジ』と出会っている。

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 その原体験が、後に「TCJ」という会社でアニメ制作の部門に関わるようになってから、ぜひとも『ハイジ』をアニメ化したいという氏の情熱に結びつく。結果として「TCJ」から独立して「瑞鷹エンタープライズ」(『ハイジ』制作時は「ズイヨー映像」)を立ち上げることで、それは現実となっていくのだ。

『ハイジ』の制作において画期的だったのは、日本のアニメとしては初となる海外への「ロケーションハンティング(ロケハン)」を敢行したことだ。「ロケハン」とは今回の場合は現地取材を指すが、アニメ制作で海外へ赴くなど前例がなかった。しかし最初から海外での展開を視野に入れていた高橋氏は、外国人の視聴に耐えうる作品を作るため、メインスタッフである演出の高畑勲氏、レイアウト担当の宮崎駿氏、作画監督の小田部羊一氏、そして担当プロデューサーの中島順三氏らをスイスへ派遣。後に『ハイジ』は海外でも放送されているが、それを観たヨーロッパの人々は誰も日本製だと思わなかったという。

 この作品が放送された1974年頃は、アニメ自体が「テレビまんが」などと呼ばれ低俗視されていた。アニメの制作陣の中にも、そう思っていた人はいたはずだ。しかし『ハイジ』のスタッフたちは、そのアニメを制作することに本気で打ち込んだ。制作環境は劣悪だったが、誰も手を抜こうとしなかった。だからこそ、彼らの本気度は情熱となって画面に現れ、全国の視聴者を熱狂させたのである。

 しかしその舞台裏では、不可解な出来事も起きていた。高橋氏の海外出張中に「ズイヨー映像」のスタッフたちが新会社に移管されていたのだ。現場の人間ですら何が起こったのか分からなかったというこの事態に対し、氏は法的に訴えることもできたはずだが、黙って身を引いている。その理由は『ハイジ』を守るためだった。内部のゴタゴタで失敗したアニメ作品が数多いことを考えれば、彼の行動はまさに英断だったといえよう。

 初回放送から40年以上経っても愛され続ける『ハイジ』。それゆえに関連するエピソードも豊富である。特に印象深いのは「チーズの話」。そう、本編でおじいさんがチーズを火で炙ると、トロリと溶けるアレである。本書ではテレビ局などに「チーズが溶けない」とクレームが入った話を紹介。本編で登場するのは「スイスのナチュラルチーズ」であり、当時の日本は溶けにくい「プロセスチーズ」が主流だったために起きた現象だ。なぜこれが気になったかといえば、私もコンロでチーズを焼いて丸焦げにした記憶があるから。そりゃ、やるでしょ。

文=木谷誠