村上春樹作品の映像化、あなたは満足できた? 小説を映画に「翻案」する際、必要な「精神」を考える一冊

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公開日:2017/4/14

『映画は文学をあきらめない ひとつの物語からもうひとつの物語へ』(水曜社)

 どんなに完成度が高い作品でも、小説を映画化したときに全ての原作ファンを満足させることは不可能だろう。ファンの数だけ原作にはイメージがあり、解釈がある。ある人には好ましい映画化でも、違う人にとっては「原作を冒涜された」と感じてしまう事態からは逃れられないのだ。

 しかし、映画もまた監督による原作解釈の一つだと考えれば、見方も変わってくるのではないだろうか。『映画は文学をあきらめない ひとつの物語からもうひとつの物語へ』(水曜社)は複数の著者たちがそれぞれの観点から小説と映画の関係について解説していく一冊だ。

 編者である宮脇俊文氏は、映画化において「原作の精神(スピリット)」を残すことが大切だと指摘する。しかし、ここでいう精神とはあくまでも文字表現によって描写が可能になっていた事象であり、映像化の際には違う表現を考えなければ消え去ってしまう。そこで、小説から映画への「翻案(アダプテーション)」が必要とされるのだ。

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 たとえば、村上春樹『ノルウェイの森』のトラン・アン・ユン監督による映画化である。松山ケンイチ、水原希子といった日本人キャストで映画化したところに監督の原作愛が感じられるが、それでも原作からの改変は避けて通れなかった。あまりにも有名な冒頭、主人公のワタナベが飛行機の中でビートルズ「ノルウェイの森」のメロディーを耳にしたことで青春時代を回想する場面が省略されていたのである。しかし、そこには監督の明確な意図があった。ワタナベが青春時代に受ける心の痛みをあくまでも生々しく描くためには、映画を回想形式にするわけにはいかなかったのだ。そして、ワタナベたちが残存記憶に囚われているということを指し示すために、同じ場所をずっと歩き回るというシーンが登場する。こうした演出は原作になく、監督にとっての『ノルウェイの森』の解釈を見せられているといっていいだろう。

 あるいは、ジェームズ・アイヴォリー監督によるカズオ・イシグロ『日の名残り』の映画化でも、原作にはないシーンが登場する。旧知の女性と再会するための旅に出かけた老執事を描く原作には、車がガス欠になったときに助けてくれる医師が登場する。しかし、二人の会話は一切描かれていない。それが、映画版では作品のテーマに関わる重要な会話を二人が交わしているのだ。これは、原作が老執事の一人称であり「信頼できない語り手」であることに由来する。イシグロからすれば老執事の心象は読者の想像に委ねさせたいところだが、彼の表情や口調が明らかになってしまう映画では主人公の気持ちを隠しておくことは難しい。だからこそ、よりテーマの核心を突くようなシーンが挿入されているのである。

 本書では数々のヒット作を手掛けてきた脚本家、山田太一氏へのインタビューが収められている。山田氏にとって脚色とは「他者の発想を擬似的に作り上げる作業」だという。原作者に映像の技術があればどんな表現を求めるのかの翻案が脚色だというのだ。山田氏はこうも発言する。

うんと素朴に考えたって、小説の表現しうる部分と、映像が表現しうる部分というのはくっきり違うし、そして両方に封じ手がありますよね。

 映像では視覚の説得力が得られる代わりに作り手が意図しない情報も盛り込まれてしまう可能性がある。小説では登場人物の内面を詳細に描ける代わりに情景がイメージしにくい場合もある。全く違う表現方法で同じ物語を描こうとするのだから、小説の映画化では違和感があってむしろ当たり前なのだ。

 それでも、作り手から原作へのリスペクトが感じられるのなら、多くの原作ファンもそれを受け入れるだろう。愛情の深さゆえにこれまで、小説の映画化を認められなかった人は本書を読み、作り手の試行錯誤に触れることで少しだけ許容範囲を広げられるのではないだろうか。

文=石塚就一